『にごれる酒に妙理あり』、2
武田泰淳は、「杜甫の酒」で次のように書いている。
『杜甫の詩は、糸竹からもれる弱々しい音色より、金石に
発する堅いひびきに似ている。詠嘆にくずれ哀感に身を
伏せることもなく、巨大な底知れぬ宙にどこかしっかりした
足場や手がかりを失っていない。鍛えに鍛えなければ形を
なさぬ中国の古い詩の厳格な約束が、そのような調子を
持たせていることは言うまでもない。』
あの悪口好きの高島俊男でさえ、杜甫の律詩と排律については
中国文学史上で神さまともいうべき存在であると言っている。
ようするに杜甫は真面目な謹厳な人であったから厳格な規則に
しばられた律詩にその本領を発揮したらしい。
同時代の詩人、李白が自由奔放に詩を作っていたのと好対照で
ある。『李白は一斗、詩百篇』というように多少酒癖は悪かったが
李白の酒は豪放で明るい。他方の杜甫は暗い。
吉川幸次郎も、『もし私が彼らと同時代人であったとする
ならば、杜甫というのは、とっつきの至ってわるい、気むずかしい
人物であろう。』と書いている。
武田泰淳はこう書いている。
『「にごれる酒に妙理あり、もって浮沈をなぐさめるにちかし」という句
は、酒と共に湧きいずる文人哲理を主張しているにちがいない。酒を
置き、酒を載せ、酒をたずさえ、酒を買い、酒を贈られる喜びの単純な
はげしさは、杜甫もよく味わっていたのである。
だが、酒飲む人はただ酒飲む人それのみであることはできない。
酒を飲む瞬間は、生きつづけたその人の到達した一点である。
そのひとの全生活のある一刹那、その刹那にはこれまでの生活の
あらゆる影と光がただよい、未来の計画と希望と共に不安と恐怖は
盃の中にさえ動いている。盃の中と外には、社会と天地が厳として
存在し、酒飲む人の手先をも支配している。泥の如く酔った人のかたわら
で、人は死に、国は亡び、友は去り、火は燃え、水は天地を蔽うのである。
酒飲む人はまさにその場所で飲んでいる。
、、、、中略、、、、、、、、、、
杜甫の場合それはヤケ酒ではなく、ガッカリ気落ちしての酒でもなく、
しがみつき、もりかえす自信のある酒である。
、、、、、、中略、、、、、、
杜甫の酒の詩にはジッと堪え得る理知のきらめきがあり、消え入るばかり
の優しさと見せかけて、実は明確に一語一行を決定していく老辣さが
目立つ。酒を殺して飲むけちくささは全くないが、酒でつぶってしまえない
眼光がキラキラして、泥酔といい酔歌といい酔眼という文字がかえって、
人の良いだらしなさより、油断のならぬ強人の緊張を示すように想われる。』
TrackBack
TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/37299/12934360
Listed below are links to weblogs that reference 『にごれる酒に妙理あり』、2:

Comments