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2006.12.20

酒合戦、6

小泉武夫は、元禄時代の酒造りを再現した。

『本朝食鑑』の記述通り、米もほとんど精米せず、

水を少なくして麹を多くした濃厚仕込みをした結果

得られた酒は、アルコール分は18%あり、今日の日本酒と

差は無かったが、糖分、酸味、アミノ酸度はいずれも現代の酒の

四倍あったという。猛烈に味の濃い酒でそのままで大量に飲めるよう

なものでは無かった。ためしに四倍の水を加えてみたが、酒は

薄く感じられなかった。アルコール分は4~5度になっているから

ビール程度である。これなら大量に飲めたはずであるというのです。

いたずらに、酒の量を競うことは愚かなことである。

しかし、我が日の本の住人は、千七八百年前の中国人をして

『倭人国、其の人は性酒を嗜む』と記されているほど酔名の轟いた

国柄であるらしい、、、、、、、、

 

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2006.12.17

酒合戦、5

李白は一斗、とは有名だけれど、

唐代の一升は、日本の枡では二升五合か三合位だ

という。それ以前、漢代のころはその三分の一位だという。

してみれば一斗といっても唐の時代では三升、漢の時代で

一升に過ぎないらしい。勿論、斗酒というのは多くの酒の

表現であって、量を正確に云ったものではないだろう。

更に、当時の酒はアルコール度数が低かったという点も

考えられる。たしか司馬遼太郎が書いていたと思うが、

李白のころの酒というのを試飲してみたが、酒に酔うというより

胃にもたれる感じだったという。

さて、江戸時代の酒はどうだったんだろう?

本当に鯉屋利兵衛は一斗八升も飲めたのだろうか?

小泉武夫が、この疑問に答えを出している、、

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2006.12.16

酒合戦、4

「千住の酒合戦」の結果であるが、

小泉武夫の本の記述と青木正児の書いたものと差違が

あるが、青木正児をとると、、、、、、

米屋の松勘なる者は、先の盃の全てを飲み干したとあるから

九升二合。小山の佐兵衛が七升五合。会津の旅人河田某が

六升二合であった。この河田某は旅の途中であるので急いでいる

と言い立ち去った。以下は余談であるが大阪屋長兵衛は四升五合

を飲み泥酔したが翌朝目覚めて、迎い酒に一升五合飲んだという。

また、新吉原の大門長次は芸妓の三味線に合わせて余興として

水一升、酒一升、醤油一升、酢一升を飲んだという。

いやはや困った者達であります。

この後、柳橋万八楼でも酒合戦が催された。

この大会では、鯉屋利兵衛が一斗八升を飲んで優勝している。

この記録は歴代最高である。

まあ、あきれるほど飲んだものであるが、青木正児はこう言う。

「我が日の本は、千七八百年年前『三国志』魏志の東夷傳に
『倭人国、其人ノ性酒ヲ嗜ム』と記されてゐるほど早くから酔名
の轟いた国柄であつたとしてみれば、是も敢て怪むに足らないで
あらう。」

さて、しかし本当に、一斗八升もの酒を飲めたのであろうか?

杉浦日向子は、万八楼という名前自体がウソなのであって

この話自体が作り話なのよ、というんだが、、、、、

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2006.12.13

酒合戦、3

文化年間に二度の大酒会が催された。

その一は、文化十二年に千住の中屋六左衛門という酒屋の

主人が自身の還暦の祝いにと催した会で、太田南畝(蜀山人)が

『続水鳥記』として、その詳細を記した。

十月二十一日、馳せ参じた酒飲みの数は、百余人。各々その酒量

を問い、それなりの席に着かせ左右に分かれて戦いは始まった。

酒は伊丹の『玉緑』、盃は六器。

江島盃(五合入り)、鎌倉盃(七合入り)、宮島盃(一升入り)
萬壽無彊盃(一升五合入り)、緑毛亀盃(二升五合入り)
丹頂鶴盃(三升入り)

先に述べた、樽次の『蜂亀盃』は七合入りであった事を考えると

この酒会に用いられた盃は大きいのが多い。更に酒の肴も結構

なものを揃えてある。からすみ、花塩、さざれ梅、蟹と鶉の焼き鳥

吸い物は鯉の切り身とはた子等々。酌は柳橋の名妓が側に居る

というのだから、、、、百人位は集まるはずであります。

さて、来賓として酒井抱一公、谷文晁、亀田鵬斎らは青竹で

仕切られた内にひかえて之を観るのであります。

しかして、その結果といえば、、、、、、、


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2006.12.11

酒合戦、2

わが国の大酒の会で古くて有名なのは平安朝の頃、

宇多天皇の亭子院賜宴であるという。

時は延喜十一年夏、上皇の御意により宮中の名だたる酒飲み

が集まった。盃に印をつけ厳密に酒を盛り二十盃を限度として

盃を廻し始めたが、六七杯で満座は酩酊し、門外に倒れる者、

殿上に吐く者もいて、極めてみっともない有様とあいなってしまった。

最高十杯で乱れなかったは藤原伊衛ただ一人で、褒美として駿馬1匹

を賜ったという。最高十杯で優勝とは相当大杯であったのであろうと

推察されるが、平安朝の朝臣たちのことであるから酒飲みとは云え

お上品であったのであろう、と青木正児は馬鹿にしている。

しかし、大酒飲んでご褒美に馬1匹とは、、、、、

大酒飲むことも男の芸の一つではある。

さて時代は下がって江戸の酒戦は、先に述べた樽次と底深の戦いが

ある。文化年間になると太田南畝の『続水鳥記』により有名な

「千住の酒合戦」が行われた。

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酒合戦

史上有名な酒合戦は「川崎大師河原の酒合戦」である。

以下は、小泉武夫の『奇食珍食』(中公文庫)などから引用

する。

そもそも合戦の発端は底深一門の一人が江戸赤坂で樽次と

会い、血を吐くまで飲んで倒れ、戸板にのせられて帰ったこと

から始まる。これに怒った西軍は第二の刺客を送ったが、

またしても吐血して敗れ去ってしまった。このままでは面子が

立たぬと、勇将池上四郎兵衛常広を送ることとなる。これに対し

樽次一門は先鋒の三浦新之丞樽明を立て向え撃つ。この一騎打ち

にも東軍は勝利したのである。この勢いに乗じて樽次一門は

底深邸へと討ち入ったのであります。かくして両軍入り混じって

酒で酒を洗う壮絶な戦いがはじまった、、、、。

勝負は大接戦となり、ついに底深が大盃を持って樽次にいどみかかる。

それを見た樽次の従者醒安は、大将の一大事とみて進み出る。

底深としばらくは戦ったが、ついに生死不明の泥酔におちいり、

「我死なば酒屋の庭の桶の下われてしずくのもりやせんもし」と辞世の

歌を詠み失神した。

あなおそろしや、凄まじい争いである。結局、樽次が勝った。

なにぶん樽次は一斗五升を飲むという酒豪であったのである。

この地黄坊樽次の子孫は現存していて、当時の大盃を保存して

いるという。大蛇丸(おろちまる)底深という人も豪族で青木昆陽を援助

していたという名家であった。

外にすることが無かったのだろうか?

まあ、アホらしいといえば、それまでであるが

こうした戦いは繰り返されたのであります。

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2006.12.09

『酒豪地黄坊樽次』

慶安の頃、江戸大塚に地黄坊樽次という大酒飲みが

いた。本名は伊丹城春朔という儒医であった。

この人の生涯で最も花々しい一幕は、大師川原の大蛇丸底深

邸宅であまたの酒豪と会して酒合戦を試みたことである。

この酒合戦の有様は『水鳥記』三巻として今日まで伝えられている。

『水鳥』とは『三水』に『酉』、即ち『酒』の字を洒落たのであります。

(青木正児の『酒豪地黄坊樽次考』から引用している。

また、この酒合戦については小泉武夫が詳しく書いている。)

この酒戦は慶安元年八月のことであるが、現代の暦では仲秋の頃

ひやひやとして酒の最も旨い時期であった。

樽次に対した一方の大将は大蛇丸底深という男で、本名を池上

太郎左衛門という豪農であった。

この両軍の戦に使われた大盃は『蜂龍盃』と銘打って、蜂と龍と蟹の

蒔絵があった。『させ』『のもう』『肴をはさむ』という洒落であった。

(いやはや、、、、困ったものです。)

この樽次の墓というのがあって、『酒徳院酔翁樽枕居士』という戒名

があり、辞世の句が二首刻まれている。

『みな人の道こそかはれ死出の山打越し見れば同じ麓路』

『南無三寶あまたの樽を呑みほして身はあき樽にかへる古里』

実際は別人のものであるらしいが、世の中にはあきれた大酒飲みが

沢山いたようである。

さた、仔細にこの酒戦の有様をみてみるに、、、、、、、、、

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2006.12.08

『にごれる酒に妙理あり』、3

武田泰淳もまた、青木正児が非難したように

宴席で詠んだ詩については「らしくない」と云う。

『見方によっては孤高をほこる詩人らしくない、つきあいの
酒を平気で飲み、つきあいの詩が堂々と残されてある。』

しかし武田泰淳は杜甫を擁護する。宴会で付き合い酒を飲み

その場で座の盛り上がる詩を作っても、独りわびしく独酌して

いても、彼の酒には数十年にわたって蓄積してきた体験の感慨

が反映されている。宴席で山海の珍味に盃をかたむける間にも

殺戮は行われ、血は音もなく街を流れる。安禄山の戦乱はおさまって

も、農村は暴動と反逆にみちみちていた。彼はこの不安定な世界を

自覚していた。

『時間と空間を引き裂くような強い詩形と、「国破れて山河あり、城
春にして草木深し」と詠みすてられる気迫を保持しつづけた詩人
は、歴史を記録するような正確沈着なその掌に、日常の酒杯を
載せていたのである。』

うむむ、難しいものだ。

青木正児が杜甫の酒は貧乏くさいと言うと、そうかなとも思う。

高島俊男が「ネクラ杜甫」と言えば、そうかなとも思う。

吉川幸次郎が「私は杜甫を読むためにこの世に生まれて来た

のであることをねがう」と書いているのを読むとスゴイナァと思う。

そんなこと考えながら、濁酒にカイを入れチビリチビリと味見を

して呟くのです。

『にごれる酒に妙理あり、もつて浮沈をなぐさめるにちかし』と、、、、

そして妻と子供達と弟の家族達と下男を加えた大所帯で

家財道具をつんだ車を引きずりながら、くやしい情けないと

詩を作りつづけた杜甫の生涯を想うのです。

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2006.12.04

『にごれる酒に妙理あり』、2

武田泰淳は、「杜甫の酒」で次のように書いている。

『杜甫の詩は、糸竹からもれる弱々しい音色より、金石に
発する堅いひびきに似ている。詠嘆にくずれ哀感に身を
伏せることもなく、巨大な底知れぬ宙にどこかしっかりした
足場や手がかりを失っていない。鍛えに鍛えなければ形を
なさぬ中国の古い詩の厳格な約束が、そのような調子を
持たせていることは言うまでもない。』

あの悪口好きの高島俊男でさえ、杜甫の律詩と排律については

中国文学史上で神さまともいうべき存在であると言っている。

ようするに杜甫は真面目な謹厳な人であったから厳格な規則に

しばられた律詩にその本領を発揮したらしい。

同時代の詩人、李白が自由奔放に詩を作っていたのと好対照で

ある。『李白は一斗、詩百篇』というように多少酒癖は悪かったが

李白の酒は豪放で明るい。他方の杜甫は暗い。

吉川幸次郎も、『もし私が彼らと同時代人であったとする

ならば、杜甫というのは、とっつきの至ってわるい、気むずかしい

人物であろう。』と書いている。

 武田泰淳はこう書いている。

『「にごれる酒に妙理あり、もって浮沈をなぐさめるにちかし」という句
は、酒と共に湧きいずる文人哲理を主張しているにちがいない。酒を
置き、酒を載せ、酒をたずさえ、酒を買い、酒を贈られる喜びの単純な
はげしさは、杜甫もよく味わっていたのである。
 だが、酒飲む人はただ酒飲む人それのみであることはできない。
酒を飲む瞬間は、生きつづけたその人の到達した一点である。
そのひとの全生活のある一刹那、その刹那にはこれまでの生活の
あらゆる影と光がただよい、未来の計画と希望と共に不安と恐怖は
盃の中にさえ動いている。盃の中と外には、社会と天地が厳として
存在し、酒飲む人の手先をも支配している。泥の如く酔った人のかたわら
で、人は死に、国は亡び、友は去り、火は燃え、水は天地を蔽うのである。
酒飲む人はまさにその場所で飲んでいる。
 、、、、中略、、、、、、、、、、
杜甫の場合それはヤケ酒ではなく、ガッカリ気落ちしての酒でもなく、
しがみつき、もりかえす自信のある酒である。
、、、、、、中略、、、、、、
杜甫の酒の詩にはジッと堪え得る理知のきらめきがあり、消え入るばかり
の優しさと見せかけて、実は明確に一語一行を決定していく老辣さが
目立つ。酒を殺して飲むけちくささは全くないが、酒でつぶってしまえない
眼光がキラキラして、泥酔といい酔歌といい酔眼という文字がかえって、
人の良いだらしなさより、油断のならぬ強人の緊張を示すように想われる。』

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2006.12.03

『にごれる酒に妙理あり』

Pb280026
魏の曹操が禁酒令を出した時、人々は密造酒の

清酒を『聖』と呼び、濁酒を『賢』と呼んだという。

我が『賢人』は、壺の中で賢く発酵している。

後、二週間ほどで飲み頃だろうか、、

ところで、『にごれる酒に妙理あり、
        もって浮沈をなぐさめるにちかし』

と云ったのは、杜甫である。

どうも青木正児は杜甫があんまりお気に入りでは

無かったらしく、「中華飲酒詩選」で杜甫の酒の詩を評して

貧乏くさい飲みっぷりであり、貴人の宴に陪従して「残杯冷炙」

を嘗めて作ったものが多い、とバッサリ。

高島俊男も『ネアカ李白とネクラ杜甫』で、「(宴会で)杜甫は

すみっこに陰気な顔ですわっていて、ときどき上目づかいにみんな

の騒いでいるようすをチラチラ見」ながら、家では食えぬご馳走を

ひたすら食っていると、見てきた事のように書いている。

まあ、同時に頭には「このレンコンは旨い、、」なんて詩が浮かんで

きているらしい。

さて、武田泰淳が『杜甫の酒』という文章を書いている、、、

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