2006.10.29
2006.10.24
2006.10.23
2006.10.22
2006.10.18
『養生訓』を読む、10
貝原益軒(若き頃は、損軒)によれば、人は皆、長命なの
である。養生法さえ守れば長生きできる。
欲に取りつかれて身体を失うのは、刀で自殺するようなものである。
不摂生と自殺とは、死期の違いこそあれ、自分で自分を害すると
いう点で同様なのである、という。益軒の云うには「養生」とは
「畏れ」の一字なのである。畏(おそ)れるというのは身を守る心の
法である。人間の欲望を我慢し慎むのである。
朝は早く起き、夜は遅く寝て、四民それぞれ自分の家業をよく勤め
る、これ即ち『勤勉即養生の道』である、というのである。
益軒は儒者であって医者ではない。彼の知識は中国の古典に
拠っているが、『養生訓』を読むと、これらの知識に盲従せず、自身
の経験的な実証主義に基づいて著述しているのが分かる。
『古来医術の書物は、しばしばかたよって全体を見ていないものが
多い。近世明末の医者にその弊害がみられる。よく選んで取得しな
ければいけない。』などと述べている。
さて総論はかくのごとしである。
具体的に益軒は、飲食、飲酒、五官、二便、洗浴、の項で
実際的な養生の法を述べる、、、、、、
2006.10.17
『養生訓』を読む、9
養生法の第一は、自分の身体を損なうものを除去せよ、
というのである。身体を損なうものとは、
「内から生じる欲望」と「外からやってくる邪気」である。
前者は、飲食の欲、好色の欲、眠りの欲、言語をほしいままにする
欲、喜び、怒り、憂い、思い、悲しみ、恐れ、驚きの七情の欲である。
後者は、風、寒さ、暑さ、湿りの、天の四気をいうのである。
内から生じる欲望をおさえ、外からくる邪気を防げば健康で元気で
長生きできるというのである。
腹八分にして大食しない、色欲を慎み精力を蓄え、余り睡眠時間を
過度にとらず、食後にすぐ寝たりせず必ず数百歩の散歩をせよ。
欲を抑え心を平静に、物事に動ぜず騒がず、しゃべり過ぎず、
ひたすら元気を消耗することを避けよ。こうした心がけが、外の邪気
から身を守ることになるのである、と言うんだが、、、、、、
私なんぞには、到底無理であります。
こんなことまでして長生きしたくない、、。
昔は、ご飯食べてすぐ寝ると牛になるぞ、なんて親に言われた記憶
があるけど、「養生訓」からきているんだろうか?現代の医学では
どうなんだろう。食後はゆったり昼寝したほうがいいんじゃないか、、
2006.10.15
『養生訓』を読む、8
前書きが多くなってしまった。『養生訓』を読みます。
『あに楽まざるべけんや。命短かければ、天下四海の富を
得ても益なし。財(たから)の山を前につんでも用なし。然れば
道にしだがひ身をたもちて、長命なるほど大なる福(さいわい)なし。
故に寿(いのちなが)きは、尚書に、五福の第一とす。是万福の
根本なり。』
おっしゃる通りです、、、
『世に富貴財禄をむさぼりて、人にへつらひ、仏神にいのり求むる人
多し。されども、其しるしなし。無病長生を求めて、養生をつつしみ、
身をもたんとする人はまれなり。富貴財禄は外にあり。求めても天命
なければ得がたし。無病長生は我にあり、もとむれば得やすし。
得がたき事を求めて、得やすき事を求めざるはなんぞや。愚なるかな。
たとひ財禄を求め得ても、多病にして短命なれば、用なし。』
そうなんだよね、、、まったくそうであります。
益軒先生は83歳にして一本の虫歯も無かったという。
2006.10.13
『養生訓』を読む、7
黒田藩主、忠之には嫌われたが、その子光之の代に
なり、彼の才能が見出され再び出仕することとなる。28歳
の時、藩命で京都に遊学することとなり、十一年間を過ごす。
この間、そうそうたる儒者、神学者、本草学者らと交わる。また
江戸に出府したり故郷に戻る長旅を続け、それらの見聞が
益軒の実際的な知識を広めるのに大いに役立った。この期間は
益軒先生は刻苦勉励したようである。ただし、村井康彦氏によれば
この頃、淋疾にかかっているらしい。「紅灯の巷」での社会勉強も
怠らなかったらしい。当然、こうしたことは講談社学術文庫の『養生訓』
の解説には書かれていない。
京都遊学から帰国して、39歳のとき益軒は結婚する。妻の初(はつ)は
17歳だった。東軒夫人である。
益軒は85歳で死去するまで、おう盛な著述活動を続ける。
『養生訓』が書かれるのは、益軒83歳のときで翌年出版されるが、同年
糟糠の妻である東軒夫人が死去した。これより益軒は心身ともに衰え
翌年(1714年)、85歳で死去した。
辞世の句は、
『越方は一夜ばかりの心地して、八十路あまりの夢を見しかな』
だった、という。
2006.10.12
『養生訓』を読む、6(栗山大膳)
栗山大膳は井伊直孝の屋敷に呼ばれた。立会い人は
土井利勝である。
大膳はこう答えた。『藩政に不都合のあることを認めていただいたのは
有り難いことである。藩主に謀叛の心ありと申し立てたのは、自分に対
する成敗を留める為である。もしあのまま領地で成敗せられたら、藩は
お取り潰しとなった事であろう。自分が犬死にすることは少しも厭わぬ。
この度のことは武略の一端かと存ずる。』
この答えに役人達は感動した。大膳への沙汰は、南部藩預かり、公儀
から百五十石の扶持を与える、というすこぶる寛大なものであった。
栗山大膳は密書を江戸に送るに一通は物慣れた者に持たせた。そして
一通は、いかにも怪しげな風体の者に持たせ、役人に捕らえさせ忠之
のもとに届くように図ったのである。
更に大膳は、家康が黒田長政に与えた念書『今天下平均之儀、誠御忠節
故と存候云々、御子孫永く粗略之儀有之間敷候』を、梶原某に託して、
藩の浮沈におよぶことがあれば、この書状を江戸の老中に差し出す様
命じていた。
栗山大膳は、一世一代の大勝負に出て藩主忠之を諌めたのである。
十太夫は、頭を丸め、高野山に登った。大膳は盛岡で南部藩の用意し
た立派な屋敷で悠悠自適の老後を過ごすことになる。
忠之は、その後家光に謁見し、徳川家と黒田家の交際は旧に復した。
さて長々と書いてきたが、貝原益軒は1648年、十九歳で忠之に
仕えたが、翌年、翌々年と二度にわたり忠之の勘気にふれ、閉居、
謁見不許可となり解雇されている。益軒が再び出仕するのは、
1656年のこと、忠之が1654年に没して藩主の座に光之が座って
後のことである。どうして、益軒が忠之に嫌われたのかは分からない。
しかし、黒田騒動の顛末をみると藩主忠之に非があるように思える。
ほとんど生理的ともいうべき違和感が両人の間に
あったのではないだろうか、と村井康彦氏は書いている。
2006.10.11
『養生訓』を読む、5(栗山大膳)
普代の家老、栗山大膳と、二代目藩主忠之との関係は
最悪の状態に陥る。忠之は大膳を冷遇することに徹するが、
大膳もまた強情に隠忍してこれに対した。やがて、忠之は大船を
建造し、十太夫の組下として足軽三百人を募った。おりしも、肥後の
加藤家に逆臣の心ありとして改易の沙汰があった。大膳は藩の前途
に危惧を抱く。
大膳は病気と称して城中に参じ無い。藩主忠之はこれに怒り、自ら大膳邸
に赴き事の真偽を正すと言い出した。若侍達も武具を持ち集まって来る。
老臣達はこの事態に大いに慌て、必死に忠之を制した。こうした事が
江戸表に達したならば藩の存亡に関わるからである。騒ぎを伝え
聞いた大膳は、頭を丸め、妻子を人質として城中に差し出した。
この翌日、忠之は、幕府目付け宛の密書を持った男を捕獲したのである。
話が長くなるので省略するが、藩主忠之は江戸に召喚されることとなる。
忠之は老中達の尋問に身の潔白を主張する。大膳、十太夫もまた他の家臣
と共に尋問される。大膳は、「只この度のことは心に思うところがあって
申し上げた。しかとお調べ願いたい」と述べて後は沈黙してしまった。
十太夫や外の家臣は、忠之の潔白を主張する。
その沙汰は次のようであった。
『謀叛の意図については無罪とするが、藩政に不調法の段あり、従って
筑前国を召し上げる。しかしながら、祖父以来の武功あり、これを認めて
改めて筑前国拝領を仰せつける』
冷や汗をかいたものの黒田藩は無事安泰となったのである。
さて、栗山大膳は改めて老中の尋問を受けることとなる。諌書にある藩政
の不都合はこれを認めるが、藩主の反逆の意図云々は偽りである。
何ゆえこうした偽りの申し立てをしたのか?ということである。
2006.10.10
『養生訓』を読む、4(栗山大膳)
栗山大膳の密書は、忠之主従を驚かせ、あきれさせたと
同時に大きな危惧を抱かせた。この密書は二通作られた。
「いかにも怪しげな風体」者の所持していた一通は江戸には
届かなかったが、一通は江戸表に進達せられたと、察せられた
からである。もはや、密書を携えた男を殺すことさえはばかられた。
徳川氏に反逆の有無を問いただされることは必至である、この上は
江戸で栗山大膳と対決して、身の潔白を証明する外、道は無い。
大膳と忠之の確執はこれ以前から深まっていた。
栗山大膳は祖父の代から、黒田官兵衛に仕え労苦を共にした
重臣である。世間によくある話だが、二代目忠之にとっては
大膳の存在は、うっとうしいものであった。
鴎外の書くには、『生徳聡明な人だけに、老臣達に制肘されずに、
独力で国政を取り捌いてみたかった』。忠之は、足軽頭の子の
十太夫という者を近習に取り立て、次第に重用するようになる。
短期間に立身出世をとげた十太夫の周囲には邪心を持つ者も
集まってくる。次第に、栗山大膳の知らぬ所で藩政が進むようになる。
先代の遺言で藩の将来を託された大膳には我慢のならない事である。
藩政にも、大膳の目から見ると緩みが出てきているように思われた。
人事においては、藩主の気分で朝令暮改が繰り返される。日々の
生活も驕奢になっている、葬祭弔問らの礼も等閑にされてきたように
思われる。こうしたなか、十太夫の個人的な利害による不正な裁判が
行われた事実を目にして、遂に栗山大膳は藩主忠之に諌書を差し出す。
十太夫の弾劾というより、忠之の反省を促す文書であった。
これに、忠之は怒った。しかしなんらの沙汰もせず、これ以後、大膳と会う
機会があっても、ひたすら顔をそむけ無視する事に終始するようになる。
大膳の諌書はこれだけの効果しか無かった。
2006.10.08
『養生訓』を読む、3(栗山大膳)
貝原益軒は寛永七年(1630年)、九州筑前福岡城の
官舎で生まれた。名は篤信、字は子誠。号は最初は
「損軒」であったが、晩年、「益軒」と号した。
父は黒田藩の祐筆で、19歳で出仕するが、翌年、翌々年と
二度にわたり藩主忠之の勘気にふれ、解職されている。
伊藤友信訳『養生訓』(講談社学術文庫)では、このあたりの
事情についてはあまり触れず、6年間の浪人生活が益軒の思想
形成の上に重要な意味がある、と述べている。
村井康彦氏は『茶の湯紀行』(河出文庫)で、この事情について
書いている。何故二度までも藩主の不快を買ったのかは不明だが
両者の間に生理的ともいえる違和感があったのだろう、という。
藩主忠之は、寛永九年(1632年)に起こった黒田藩のお家騒動、
いわゆる栗山大膳事件の当事者であったことを考えれば、非は藩主
忠之のほうにあったのではないか、と述べている。
この黒田騒動については、森鴎外に『栗山大膳』という小説がある。
小説は、博多辻の堂町で怪しげな風体の者を捕らえたところ藩主忠之
が反逆の企てをしているという幕府目付け宛の封書を所持して
いた。そしてその差出人は栗山大膳であった、ということから始まる。
武士の本分は忠義である。黒田藩の重鎮栗山大膳は何故、
こともあろうに、藩主忠之をありもしない謀叛の企てありと、
幕府に訴えでたのであろうか、、、、
2006.10.07
『養生訓』を読む、2(色川武大の場合)
色川武大は阿佐田哲也(朝だ、、徹夜)というペンネームも
持ち、マージャンの天才であった。
この人の食生活というのは次の様である。
朝六時半~七時ごろ
ひじき、かれいの煮物、オムレツ、味噌汁、きゅうりの漬け物
ご飯(ドンブリ二杯)
午後二時ごろ
ポテトコロッケ(大二個)、温野菜(ほうれん草)添え、冷奴(半丁)
きんぴらごぼう、味噌汁、ご飯(二膳)
午後四時ごろ
ソース焼きソバ(大盛り)
午後七時ごろ
天麩羅(金時いも、人参、なす、キス、エビ、掻揚げ)モヤシと白滝
の油炒め、とろろ、味噌汁、ご飯(二膳)、味噌漬け(きゅうり)
夜十二時ごろ
刺身(中トロ)、おから、ほうれん草の胡麻和え、吸い物(鰯のつみれ)
ご飯(二膳)、味噌漬け(なす、大根、こまかく刻んで)
真夜中三時ごろ
トマトシチュー、トースト(厚切り二枚)、生ハム、サラダ
この外、毎日とるもの
野菜ジュース(大ジョッキ一杯)、シャーベット(資生堂パーラー)
果物(蜜柑、バナナ、いちごなど)、生菓子、あれば4、5個)
大好物の混ぜご飯があれば、一度に四合。
これは、奥さんの色川孝子さんが書いている。さぞかし大変だったろう。
さて、この色川武大が次のように書いている。
『古今亭志ん生のマクラに、摂生して自動車事故で死ぬ人と、不摂生し
ながら生き残る人とでは、やっぱり事故で亡くなる人の方が,不摂生だ、
という小噺があるが、なんだか理屈には合わないけれども、そういう実感
がしないでもない。人生は理屈でもパーセントでもない。』
しかし、色川は60歳で死んでしまった。多分、全く後悔してないだろうけど、
分からないけどね、、、
さて、やっぱり長生きしたい人は『養生訓』を読もう、、、
2006.10.06
『養生訓』を読む、1(色川武大の場合)
色川武大という人は、ナルコレプシーという奇病を
持っていた。この病気は突然眠りこんでしまう。この為
睡眠が断続的になり、一日三食のリズムが壊れ、絶えず
空腹感に悩まされることになる。かくして彼は一日六食という
異常な食生活を余儀なくされたのである。しかしこの食生活は
色川のエッセイ『大喰いでなければ』なんてのを読むと多分に遺伝的
な要素もあるようだ。彼の父親は96歳の長寿をまっとうしたが大食いだった。
80の半ばまで、朝昼版、一日三回、ドンブリに二杯ずつ飯を喰った。
それでも鶴のように痩せていたという。飯は食うが副食はほとんど食べない。
味噌汁とお新香だけだったらしい。それに反して、色川の母親は水を飲んでも
太るという体質であったらしい。それほど食べないのだが肥満体であった。
それでも80過ぎまで生きた。色川はこの両親の遺伝子を引き継ぎ、
大喰いで肥満体であった。残念ながら両親のように長命ではなく60歳で
死んだ。この人の奥さんの書いた本には一日の食事のメニューが書いて
あるが、とてつもないものである、、、、、、
2006.10.05
貝原益軒と茶
『養生訓』の「茶の効用」には次のように書かれている。
「茶は上古には無かった。中世になって中国から渡ってきた。
そののち、人々が賞味して日用欠くことのできない大切なもの
となった。茶はもともと性が冷であって気を下し、睡気(ねむけ)
をさますのである。」
人々は、朝から晩まで多く茶を飲むが、もともとは冷性であるから
一度に大量に飲んではいけない。抹茶は炒ったり煮たりしないので
強い。煎茶は炒ったり煮たりするのでやわらかである。故に日常は
煎茶を飲むほうがいい、と煎茶を奨励する。さらに、、、、、
「食事の後に熱い茶を少し飲むのは食物の消化させ乾きをいやす。
空腹の時に茶を飲んではいけない。脾胃をそこねる。
濃い茶を多く飲んではいけない。新しく生じた気をそこねるからである。
虚弱、病弱な人は新茶を飲んではいけない。新茶には毒がある」等々。
煎茶で炊いた、奈良茶漬けを推奨するわりには、お茶自体をがぶがぶ
飲む事はあまり良くないというのである。
村井康彦氏は、『たしかにこれは茶の養生訓であるが、さて今日の医学
から見て、どの程度まで通用する意見であろうか。』と疑っている。
たしかに、『養生訓』を読んでいると、はて?と思う記述にあたる。
しかし益軒先生は85歳の天寿を全うしたのであります。
なんとなく、説得力があるのです。
さて、『養生訓』を読むことにします、、、、
2006.10.04
貝原益軒と奈良茶
村井康彦著『茶の湯紀行』(河出文庫)の、
「民生日用の茶」の項に貝原益軒と茶について
記されてある。
手元に、貝原益軒著『養生訓』(講談社学術文庫、伊藤友信訳)
がある。読むことにする。
「民生日用の茶」という時の『民生日用』いう言葉は益軒がつねに
願っていたことで「民生日用の小補」、「世間通用」を旨として
『養生訓』は書かれた。
実生活に役立つちょっとした智恵、現代のテレビ番組でも人気のある、
みのもんたや堺正章らの司会による健康番組の元祖みたいな本である。
この「養生訓」で奈良茶が推奨されている。
『大和国中はすべて奈良茶を毎日食す。飯に煎茶をそそぎたる也、
赤豆(あずき)・ささげ・そらまめ・緑豆(ぶんどう)・陳皮(みかんの皮)
くり・むかごなどを加え点じ用う。食を進め、胸を開く。』
これが書いてあるのは、「巻第四 飲茶ならびに煙草」という項で
六ヵ条にわたって書かれている。
有名な「慎色慾」の項の前である。
勿論この「奈良茶」は、ようするにお茶漬けである。
お茶については、貝原益軒はけっこう冷たいのである、、、、、、
2006.10.02
芭蕉と奈良茶飯、2
奈良茶飯は略して奈良茶と称したが、明暦の大火
(1657年)後、浅草の金龍山浅草寺も門前の茶屋で
売り出したのが最初だという。その後江戸中に広まった。
杉浦日向子によれば茶飯というのは、もっともポピュラーな
夜食で、茶飯にあんかけ豆腐をかけて屋台で売られた。
寿司、そば、天ぷら等の屋台も朝まで営業していたという。
茶屋で出された奈良茶飯は、薄くいれた煎茶で飯を炊き、
改めてその上に茶をかけて食べるもので、豆腐汁、煮しめ、
煮豆らを添えてあった。
中江克巳著「江戸の遊び方」に、奈良茶飯の値段は、元禄6年
の記録で、現代の値段で八百二十五円、蕎麦の四百円に比べれば
高いが庶民的な食べ物であったと書いてある。
芭蕉の年譜を見ると、1644年に生まれている。1672年の春29歳
の時、江戸に下るとある。
奈良茶飯が売り出されたのが、1657年のこと。それからあっという間
に手軽で安価なファーストフードとして庶民に支持され広まった。
江戸に来た芭蕉もすぐに食べたに違いない。
奈良茶飯はその庶民性から質素さの象徴とされた。
芭蕉は門人達に『なら茶三石喰ふて後はじめて俳諧の意味を知るべし』
といったという。そして、そこから俳諧師のことを
「奈良茶をたくべき身」といったように、奈良茶(飯)が俳諧(師)の代名詞
ともなったという。(村井康彦)
侘びに徹しようとした芭蕉は、食べ物も質素で庶民的な奈良茶(飯)を
好んだようだ。















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