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2006.09.30

奈良茶飯と芭蕉、1

村井康彦著『茶の湯紀行』(河出文庫)に

芭蕉と茶について書かれてある。

『秋ちかき心の寄や四畳半』という芭蕉最晩年の句は、

四畳半という小間に心を同じうする師弟同輩が集う、なごやかな

情景が思い浮かぶ。この「四畳半」というのは、意味のある空間の

表現で、茶の湯が芭蕉の意識にあったことは間違いないという。

 芭蕉に茶をよみこんだ句は八句あるらしい。

       『朝茶のむ僧静也菊の花』

       『するが路や花橘も茶の匂ひ』

等である。しかしいづれも茶摘や、茶の匂いであったりで、茶の湯を

よんだ句は無いという。

ただそのなかに『侘てすめ月侘斎がなら茶歌』(「歌」は欠を除いた字)

という句がある。この句には次のような詞書がある。

『 月をわび、身をわび、拙きをわびて、わぶとこたへむとすれど、
 問(とふ)人もなし。なをわびわびて、』

その訳は次のよう、

『-月を眺めては侘しさを噛みしめ、無能な己を思って侘しさを噛みしめ、
 身の不遇をかえりみては侘しさを噛みしめて、昔在原行平が、
 「もしほたれつつわぶとこたへよ」と歌ったように、わたしもだれか安否
 を問うてくれる人があったら、「侘しをかみしめている」と答えようと思っ
 ているのだが、わたしにはだれひとり問いかけてくれる人もいない。
 それで、いっそう侘しさを噛みしめ、噛みしめ、

 侘びて澄め月よ、そして侘びて住め、月を見ては侘びしかるこの
 月侘斎(芭蕉)よ。奈良茶飯に満足して、へたな俳諧を己れの歌として
 歌い続けながら。』

ここで、『奈良茶』というのは奈良茶飯のことで、江戸のファーストフードと

して大いに流行したということは前に書いた。

この奈良茶飯がどうして「侘び」なのだろうか、、
     

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2006.09.27

良寛さんの鼻くそ

これは『茶の湯紀行』(村井康彦著・河出文庫)にある

話。解良栄重の『良寛禅師奇話』の中の茶事に関した

良寛の人となりを伝えるエピソードである。

『師(良寛)嘗て茶の湯の席に列りし事あり。所謂濃茶なり。

師知らずして飲みほして見れば、次客、席にあり。師やむなく

口中含むところを椀に吐きて与ふ。その人念仏を唱えつつ

飲みしと。

 之れ師みづから語りしところなり。

右と同じ席にてのことにや、師鼻くそを取りてひそかに座の右

に置かんとす。右客袖をひく。左に置かんとす。左客袖をひく。

師止むを得ずして、ふたたび之を鼻中に置きしと云ふ。』

村井氏はこの逸話が、良寛の茶の湯批判とみるのは早計で

あるが、『戎語』のなかに「茶人くさき話」とあるように、形式ばった

茶の湯に好意的でなかったことは確かであろうと述べている。

この前後には、「さとりくさき話」「学者くさき話」「風雅くさき話」など

があり、ひとつ茶の湯にかぎらず、度をすぎたもったいぶった態度が

嫌いだったようである。

 前述の『懐石』の項で引用した本の中で、ある家元が現代の茶の湯

は形式化して技巧に走るばかりで、亭主の創意工夫が見られないと

嘆いていた。良寛さんが面白おかしく伝えた話は、こうした形式ばかりで

もったいぶって心を忘れた茶の湯への警句であったのかも知れない。

もっとも、偉そうにこう書いている私自身は茶の湯の席にもついたことも

無い。「知ったかぶりの話」であります、、、、、

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2006.09.26

懐石、4

淀の城主長井信斎が、千宗旦を招いて茶会を催した。

長井は、客が侘茶人千宗旦であるからとて、料理の万時に

軽いあつかいをした。その後、信斎が宗旦に逢う機会があり、

先日の茶会の感想を聞いた。

宗旦は、「あれは大名の茶には不似合いに存じました」と答えた。

平素種々の馳走になれている大名の信斎は客あしらいを軽くして

面白く思ったのに対し、宗旦は、大名は大名にふさわしくもてなすべき

ことを、それとなくさとした。この場合、名物の淀の鯉の一品ぐらいは

出すべきで、ここに『侘びのぜいたく』があることを

宗旦は信斎に教えたんであるという。

わざとらしく、質素に構えながら蒲鉾を出して利休の不興をかった守口の

茶人、ことさら侘びを構えて軽い食事を出して宗旦に叱られた大名。

なんだか、分かる様な気もするが難しいものである。

遠州流の宗家、小堀宗慶が次のように書いている。

『小堀遠州の遺訓の中に
 「たとへ一品たりとも 志を厚く 多味なりとも志薄きときは 早瀬の鮎
 水底の鯉とても 味あるべからず」とあります。この心をもって客に料理
 は出すべきで、、心を失い、技巧に走ることは最も慎むべきことです。
 茶道を俗に、「日常茶飯のこと」といいます。元来茶室の料理は、亭主
 の采配により、旬の新鮮な材料を、小細工をせず、調味によって素材
 の味をそこなわぬように出すこと、、』

守口の茶人は、庭の柚子を取り柚子味噌を出すまでは良かったのだが

なんの手の加えぬ遠来の珍味の一品を出した事で失敗した。

淀の大名は軽い食事ですます事を侘びと心得たが、一品その土地の

名物を加えるという心使いを忘れたことで失敗した。

私のような朴念仁の目から見ると、なんとも難しいことのようにも思える。

しかし、よく考えて見ると彼らは茶の湯の席で真剣勝負をしていた。

岡倉天心は『茶の本』で、「茶道は、日常生活の雑事のなかに見出され

たる美的なものを崇敬することに基づく一種の儀式」であり、「一種の

宗教とさえなった」という。

千宗室は、難しいことでは無く『その基本は、いかに人を暖かくもてなす

かということで、日常のもてなしを「心をこめて」するだけのことです』という。

一休みして、こういう小難しい『茶人らしき話』を嫌った良寛さんの

逸話を見てみましょう。

『良寛さんの鼻くそ』というのです。むかし、一度書いたけど、、、、


 

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2006.09.25

懐石、3

利休が太閤秀吉を迎えた時と、古田織部を客とした時の

献立というのが書いてある。

  秀吉の為の献立
一、なます、うなぎ
一、汁 なつ豆 一、めし
一、あへ物 二の膳  一、汁 鴨
一、焼物 鯛  一、菓子 ざくろ 焼ぐり 川茸


  古田織部の為の献立
一、なます  一、汁 鱈
一、めし  一、焼物 うなぎ
一、菓子 くり かき

こうして見ると当時の最高権力者を迎えても、ことさら馳走で

もてなしていない。利休は人によりそのもてなしを変えなかった。

利休の時代のもてなしは質素であった、と山田宗囲という人が

書いている。まぁ、私のような貧乏人から見れば結構いいもの

食ってると思えるが、、、。

さて時代が下がるに従い江戸も中期以降ともなれば料理、材料

ともに格段の進歩を見せる。姫路城主酒井公、松江松平不昧公らの

献立というのも紹介されているが、品数も多く手のこんだ料理である。

ちなみに松江の殿様の茶事の献立(1811年正月9日)

一、向 平作り 鮒子付 いり酒  一、汁 のり めうど 一、めし
一、平皿 鶴色附枝 うど 生椎茸
一、引物 大阪蒲鉾 しほ山椒   一、香物 守口漬、かぶら
一、吸物 へぎあわび みるくい房
一、取肴 からすみ 昆布
一、肴  うに      一、菓子 薄霞 煮染あらめ
一、惣菓子 白みどり 曲あるへい 青筋

うーむ、なんだかよく分からんがご馳走だ。

松平不昧が茶の湯にことさら執心し、茶器の収集に金を使った事は

有名であるが、これにより藩の財政が逼迫したという事実もあるようだ。

この事については、村井康彦『茶の湯紀行』(河出文庫)に興味深い

一章があるが、いづれ紹介しましょう。

さて、利休が質素を旨としたのに、どんどん料理は豪華になってゆく。

蒲鉾一つ出されたのに不愉快になって席を立った利休は

どう思うのだろうかと、私なんぞは考えるんだね。

ところが粗末な料理を出して、

こんどは叱られたという話が書いてあるんだなぁ、、、、、、


  

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2006.09.24

懐石、2

さて、利休が守口に住む茶人を訪ねた際の話が

書いてある。大阪から京に上がる途中、まだ夜の明けきらぬ

頃、その茶人を訪ねた。亭主はコレハと驚き請じ入れた。

しばらくすると庭で音がするので、利休が窓から見ると、亭主

が行灯に竹竿を持ち、柚子の実を二つ、三つとり内に入った。

さては柚子の一種で飯を出すのか、これは侘びたもてなしで、

ひときわ面白いと利休は思った。案の定、主人は柚子味噌のみ

で膳をだしてきた。利休は快く飯を食べ、酒一献を過ごしていた。

ところが、亭主は、大阪より貰いましたと、蒲鉾を出した。

それを見て、利休は興ざめして酒も半ばに急用を思い出したと

断って、亭主の留めるのも聞かず辞去してしまった。

利休が何故に興ざめしたのかというに、遠来の珍味の蒲鉾を見て

これは、今夜自分がここを尋ねる事を誰かから伝え聞き、ひそかに

用意したものであろうと見破ったのである、という。

遠来の珍味を出せば、それのみを馳走と考え、他の魚菜に心を用

いない亭主のわざとらしさに興ざめした。

利休は、専ら閑寂の情趣を愛し、真実至誠の人となりで自然の姿

そのままを貴び、わざとらしさを最も嫌ったという。

しかし、夜も明けきらぬころ、不意に茶人宅を訪れて臨機応変の

もてなしを試すとは、、。利休という人も厳しい人ではある。

誠実至誠の人柄の人が早朝、茶人宅を不意に

訪れるのだろうか。結果から言えばこの茶人を試したということになる。

誰かから早朝の訪問を伝え聞いたのであろうという事は、利休が事前に

周囲の者に、この茶人宅を訪問する予定を漏らしたということで、

周囲の者が粗相の無い様にとこの茶人に密かに伝えたとしても無理の

無いことであろう。ようするに、亭主の対応が不意の訪問に驚いたように

見せかけたわざとらしさが、遠来の珍味を出すことにより露見したという

ことだろうか。ありあわせのものだけで押し通すべきだったんだろうか?

さて、、、、人のもてなしというものは難しいものだ、、。

宗彳扁という茶人は、客を迎えるにあたって、予め客の好む料理と、

きらいな料理を尋ねたという。そして客の嫌いな料理は出さない事は

当然であるが、客の好む料理も出さなかったという。それはもし作った

料理が客の口に叶わなかったら失礼にあたるからである、という。

さて、難しいものだ、、、、、。

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2006.09.20

懐石、1

『定本 日本料理』(主婦の友社刊)に「懐石」の

項がある。

薮内家、表千家、宗彳扁流、遠州流、武者小路千家、

江戸千家、裏千家、煎茶花月菴らの懐石料理の写真は実に

見ていて楽しく、解説文はそれぞれおもむきがある。

小生は茶の湯なんて高尚なものに接する機会も無く、お茶より

お酒の無骨者だが、例えば裏千家の、「夜咄」のメニューの写真と

解説を見ると平素の下品な酒の飲み方、食事の仕方を反省する。

     「夜咄」

  向付  あまだい柚釜の酒むし
  汁    納豆汁 くるみ
  飯
  煮物  みぞれ仕立 
        丸揚とうふ 浅草のり 洗いねぎ おろし生姜
  焼物  まながつお味噌漬
  進肴  なべ仕立
        引き上げ湯葉 うずら叩き寄せ 海老芋 きざみ柚子
  吸物  そばの実 梅肉仕立
  八寸  長芋 鮭のくん製
  湯斗
  香の物  たくわん なら漬 水菜
  菓子   雪明り

「茶事の数あるなかでも、夜咄の茶事は、亭主がよほどの巧者で

なければつとまらない」と解説に書かれてある。

寒い冬の夜、露地行灯のまたたく灯影に、打ち水に濡れて光る路地

を進めば、昼間の喧騒雑事を忘れるという。

ふーむ、茶の湯は分からぬが、冬の夜寒こんな料理を食べながら、

静に酒を飲みたい、、、、

裏千家家元 千宗室は解説で、

『茶の湯とは ただ湯を沸かし 茶をたてて 飲むばかりなる 
                               ことと知るべし』

という利休の道歌を引き、

『茶道の精神とはなにかと問われますと、「和敬清寂」と申します。
これを現代的に「明るさ、広やかさ、なごやかさ、次の行動を待つ緊張
にみちたしじま、大洋のような底知れぬ静けさ」と言いかえれば、
理解してもらえるでしょう。この心を自分に作りあげる過程、それが
茶の手前なのです。』と書いている。

む、む、むう、、よく分からぬ、、、、。

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2006.09.18

八百善、7

広辞苑で、「会席料理」を引くと、

『本膳料理を簡略にしたのに始まり、次第に変化して酒宴

の席の料理となったもの。上等な料理で会席膳を用いる。』

とある。

「袱紗料理」を引くと、

『儀式的な本膳と、略式の会席との中間の料理。』とある。

江戸時代になり、日本料理というものが確立してくる。形式的、

儀式的な本膳料理が窮屈と思う文人、庶民らはもっと自由に

食事を楽しみたいと考える。茶事における懐石の簡易さも参考

にされ、まず酒宴を楽しみそして会の終わる頃食事を含む本膳と

する形式(会席料理)が成立してくる。文人、俳人、歌人らは

まず吸物膳を先に酒と料理を愛でながら会席を愉しんだ。こうして

八百善らを代表とする会席料理の看板をかかげる店が繁盛し今日

の会席料理の型を作っていく事になる。

小笠原清信は、日本料理は一汁三菜が基本で同種同味のものを

出さない。自然の味付けと季節を折りこむ。菜から菜に移るのを嫌い、

必ず飯や汁を間に食する。これは味や香りが移るのを避ける為という。

懐石料理というのも、もとは禅宗の修行僧は朝一食であったが、病に

かかった時体力をつける為、晩に粥を食べこれを薬石といった。また、

温石といい、温めた石を懐中に入れ身体を温め病をいやした。これを、

懐石と称した。これが病気の平癒というより一時の空腹を癒す粥のよう

な意味になり、簡素な精進料理の系譜を踏みながら茶道の普及と共に

武士達は料理に新たな趣向を求めるようになる。

『定本 日本料理』には、各流派の茶懐石の写真がある、、、、

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2006.09.16

八百善、6

八百善の料理は、小笠原流に基づいていた。

小笠原流とはなにか、というと武家の礼儀作法である。

平氏は貴族文化を踏襲しようとした。貴族文化では、

「料理の調理は賤しき事」であった。平氏を滅した源氏は、

質実剛健を旨とし新たな武家文化を確立しようとする。

それらの役目を担ったのが、小笠原家、伊勢家らの有職故実家で

ある。武家の作法が整えられる。食事に関しても、戦場で自ら調理

した武士達は、料理の調理は賤しき事などという感覚は無く、

もてなしとして客に自ら調理することもおこなわれた。茶会席とか調理法

の発達により、武家料理は確立していく。武士達の料理への関心の

高まりが新たな趣向を料理に加えていく。

武家料理の形式の最高のものが、将軍饗応の膳である。

『定本 日本料理』には、加賀前田家が二代将軍秀忠を江戸屋敷に

迎えた折の、「将軍饗応の膳」が再現された写真が載っている。

なんだか、色々なことが書いてあるが、将軍の饗応には全て金色の

物を用い、屏風も金色を用いたというように麗々しいものである。

ようするに、「八百膳」の料理は、饗応の膳の、式の膳、饗の膳、

袱紗料理らの形式を踏襲しつつ、より楽しく酒、食事を楽しむ江戸料理

を確立したのである。

なんて、書いてるけど正直いって良く分からん。

会席料理とは、、、、、、、

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2006.09.15

八百善、5

『定本 日本料理』から無断引用する。

「八百善」の昭和初期の料理である。

P9150038
P9150039
ちょっと見にくいかもしれないけど、、

上の写真の中央が、本膳で
                汁 米つみれ・こかぶ・割竹の子
                飯 香の物
                膾 平目昆布〆・小あじ砧巻・人参大根酢合
                     いかり防風   かげん酢 わさび
                平 ひろうず・かすてら玉子・長芋土佐煮
                     椎茸・いんげん
             二の膳は
                二の汁 子えびつくね・青み菜 木の芽
                坪    胡麻豆腐うずら団子冬瓜薄葛わさび
                猪口   なすび甘煮
             三の膳は
                小鯛浜焼
                吸物    福子・ささがき牛蒡

下の写真の上が  鉢肴 大鯛船盛・子鯛串焼・鴨けんちん巻・姫百合白煮
                 筆生姜
       下が  作り身 ほしかれい黒白皮付きあらひ・まぐろ・紋甲烏賊
                  めじそ 花丸 防風 青赤とさかのり 
                  わさび醤油

なんだそうだ、、、、。

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2006.09.13

八百善、4

八百善の料理とはどんなものだったのだろう、、、?

まず100%の確率で、今でもある『八百善』に行く事など

ありえない。

『定本日本料理 様式』(主婦の友社)というのに写真と解説が
 
載っている。昭和52年刊のこの本はブックオフで見つけて安かった

ので、『日本の行事料理』と二冊買った。これがなかなか面白い。

八百善の料理は、『本膳料理』、「昭和初期「八百善料理再現」・

袱紗料理ニ汁五菜として紹介されている。

解説は、小笠原清信が書いている。この人は、小笠原流の

三十世宗家で、昔はテレビによく出演して礼儀作法の話をしていた。

清信さんの先代二十九世清明が昭和初期、日本料理が乱れていく

事を憂い、小笠原門下であった、「八百善」八代目に依頼して二汁五菜

を作った。この本に出ている写真は、この時のレシピを元に「八百善」九

代目が忠実に再現したものであるらしい。


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2006.09.12

八百善、3

八百善の先祖は、神田界隈の百姓だつた。元禄の頃

浅草に移り、八百屋を始めた。近くの寺院に精進料理の

仕出をしたり、吉原通いの客に食事を出すようになる。

高級料理屋を始めたのは、四代目八百屋善四郎のときで、

『八百善』と屋号を定めた。四代目は俳諧をたしなむ風流人で

大田南畝、酒井抱一らと交流があり、こうした文化人らが

しばしばこの店を使った。四代目は単に高価な料理を出すだけ

の主人では無く、自分の店で出す料理の本を出版するなど

江戸料理の確立に貢献した。この店は現在でもあるらしい。

今年の初めだったか、昭和20年代の八百善を舞台にしたドラマが

NHKで放映されていた。

永井荷風が、この店で結婚式を挙げたのは有名な話だが、幸田露伴

も、この店が贔屓だった。酒の燗、酒の肴、味加減など、全てに

うるさい人であったことは、幸田文の文章で伺い知れるが、『八百善』で

も、少しでも旬にはずれた物をだすと江戸弁で強くたしなめたという。

森鴎外も、お客があると『八百善』から料理をとった。しかし鴎外は軍医

だったこともあり、冬は、衛生的で良いと焼き芋を昼飯にしていたらしい。

仕出しの弁当を食べるときは卵焼きと奈良漬と梅干しか食べなかった。

ばい菌を恐れて人の手にかかるものを嫌ったのである。あまり食通とは

思えない。『八百善』の料理はみんな食べたのであろうか?

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2006.09.11

八百善、2

八百善の料理は高級志向でメニューも豊富で、値段も

高かった。こうした店は当然、官民一体の接待の場となる。

船橋某という役人は権勢があった。ある人から料理切手一枚を

贈られた。ようするに現代でいう商品券である。用人二人を浅草

方面に使いに行かせ、帰りに八百善で夕飯でも食って来いと言い

この料理切手を渡した。二人は贅をこらした食事を腹一杯食べた。

帰りには料理の駕詰めとともに、過剰預かり金として十五両の現金

をもらった。二人は驚き主人に報告した。舟橋某は二人に、

贈られた料理切手は五十両の額面のものであろう、と告げた。

五十両といえば、五百万円である。用人二人は三百五十万円の食事

を食べ、百五十万円の小遣いをもらったことになる。

こうした話がどこまで真実かは疑わしいが、八百善の料理の高価さを

伝える都市伝説として出来たものであろう。

現代でもバブルの頃の過剰なグルメブーム、最近、出すぎて打たれた

六本木ヒルズの住人などの食事を思い起こさせる。

こうした高級料理店の増加により、江戸近郊の農家は野菜の促成栽培

にはげむ様になる。江戸市中から金を払って人糞を集め

、八百善のような高級料亭に納入する野菜を、現代で言うハウス栽培、

雨障子をかけたり、部屋の中で炭を燃やして栽培し多額の現金収入を

得ていた。人間のすることは時代を超えて同じなんだね。

勿論、幕府はこうした奢りに対して度々禁止令をだして規制している。

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2006.09.10

八百善、1

18世紀後半から、本格的な料理茶屋が現れる。

多人数の会合にも利用でき、内装も贅沢で大名、上級武士、

大商人らが利用した。

この中で有名なのが『八百善』で、享和三年(1803)吉原近くの

山谷に開業した。この店は値段の高いことで有名だった。

いくつもの話が伝えられている。

ある人が、酒も飲み飽きたので八百善へ行ってお茶漬けを所望した。

しばらく、お待ちくださいと言われて、待つこと半日。香の物は春には

珍しい瓜と茄子の粕漬け、それに煎茶をかけて、サラサラと喰った。

勘定を尋ねると、一両二分。現代の金に換算すると11万円程。

三人で食ったので茶漬け一杯、3万円強ということになる。

あまりの高さに興ざめして、その理由を尋ねると、主人は、

「香の物の代はそれほどのものではありません。茶にあう水を玉川

まで早飛脚に汲みに行かせた代金でございます。」と答えた。

またある医師が、親戚の家で出たハリハリ漬けの旨さに感心して

八百善に買いに行ったところ、5万円だと言われた。

その理由は、尾張の細根大根のなかでも最上の物を選び、水では

洗わずに味醂で洗って漬け込むので値が張ると言う。

もっと贅沢な話も伝えられている、、、

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2006.09.09

奈良茶飯、2

明暦の大火後に、奈良茶飯というものが出来た。

豆腐汁・煮しめ・煮豆とといったのものを添えた茶飯、

薄くいれた煎茶で飯を炊き、改めてその上にお茶をかけて

食べる、奈良の旅籠の出す食事をまねたものらしい。

それほど手のこんだ料理でもないが、外食をしたいという人々

の増加とともに、料理茶屋は繁盛するようになる。

ちなみに、奈良茶飯の値段は、元禄時代で銀五分、一両十万円と

みて、八百二十五円。蕎麦の十六文(四百円)に比べれば高いが

庶民でも容易に食べられる価格だった。握り鮨は一個二百円程度

だった。(中江克巳著「江戸の遊び方」)

江戸っ子といわれる人たちは肉体労働者で、鳶、大工、左官などの

仕事では、一度に大量に食っては身軽に動けない。

少量ずつ、何度にも分けて食事をとった。屋台店で鮨、天麩羅、そば、

おでんなどを、自由きままに食べた。

しかし、武家、手堅い商家などではテンヤ物といって、買い食いを

嫌う風習があった。

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2006.09.08

奈良茶飯、1

先に引用した「三都穴さがし」に、京者が江戸者、大阪者を

ののしる言葉に、「蚊帳を殺して鰹を買う食い倒れ」、

「皆食い倒れに拠り、煮売り多」くとある。

この「煮売り」というのは、現代で言うファーストフードである。

ようするに、「買い喰い」というのは、贅沢なことと考えられていた。

それが、江戸、大阪のような大都市は日常化していた。

三田村鳶魚が、「煮売りの発生」という文を書いているが、貨幣経済の

成長と共に都市生活者の間では、自分の家で出来るもの以外に、

身分の差は色々あったが、毎月一度か二度は、家族を連れて料理屋に

行くという、『仕癖』があった。鳶魚によれば、そうした習慣は旅により

普及した。旅に出れば貨幣を持ち外食せざるをえない。金を出して

珍しいものを喰うという習慣が、江戸に外食産業の発生を促がした。

享保の半ばまで江戸には、丸の内から浅草観音までの間に食い物屋

は無かった。皮肉にも、明暦の大火の後、元禄の地震火事の後、

各自が家庭で食べ物を調達できない事情があって外食産業が起こる。

蕎麦、鮨、天麩羅、さまざまなファーストフードが生まれる。

災害の後には、復興景気がおきる。いくばくかの現金を手にした労働者

は手っ取り早く空腹を満足させる『煮売り』の店に走る。

かくして『煮売り』の店が都市に繁盛す事となる。

この最初の頃のヒット商品というのが、『奈良茶飯』だった。

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2006.09.05

『京江戸自慢くらべ』

先に『三都穴さがし』というのを紹介したが、

『京江戸自慢くらべ』というのが、『鳶魚江戸文庫、9』に

書いてある。文政年間に出来たものらしい。

 江戸   世の中の花によそえて江戸桜
京    都ははなのにしき染めもの
江戸   御の字の付た所は江戸計り
  京    おこりのおちる大内の砂
 江戸   秋の鮭、冬さわらに初鰹
  京    はも生鱈にわたもちの鮎
 江戸   白魚の生たを直に海苔に入
  京    はへたのを焼く松茸の味
 江戸   諸大名どしどし江戸へ御参勤
  京    八百万神大内のばん
 江戸   世を照らす光の元は東かや
  京    日月も元はこちらのご先祖
 江戸   日本に江戸前鰻類はなし
  京    たくさん喰源五郎鮒
 江戸   小便を汁の実にして喰都
  京    大家の息子くそで育る
 江戸   極楽といふべき国はお江戸也
  京    水がきれると眼前のがき
 江戸   ほう髭に似合ぬ京のとらさんせ
  京    女の口で、ばかなつらだな
 江戸   いやしきは女の懸るはかりの目
  京    四百なげ出す、さてもげびたり
 江戸   江戸女、少しなまりの上はなし
  京    なぜに京から舞子かかへる
 江戸   役者ではずい市川に三津五郎
  京    登て恥をかきし嵐吉
 江戸   金持の寄りし本町駿河町
  京    いづれも皆な本店は京
 江戸   山の手で耳にあくほどほととぎす
  京    なまりのぬけし都鶯
 江戸   江戸の金わたらぬ国はなかりけり
  京    こればつかりはまけたわいのふ

正直言って半分の意味もよく理解できないんですが、どうも京が

優位である。しかし最後に江戸の貨幣の通用しないところは無い、

というのに対しては、京者も、これには、おっしゃる通りと言う。

どうも江戸者は、将軍様のお膝元と粋がっているが、天子様の

あそばす京にはひけめがあった様だ。

徳川家も、幕末、錦の御旗の前にはあっさり大政奉還している。

まぁ、しかし罪が無いというか、しょうもない自慢比べではある。

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2006.09.04

深川めし

 深川めしというのは、深川にゆかりの漁師や行商人などが

手っ取り早く食べた労働食。アサリ、ハマグリ、アオヤギなど諸説

あるが、当初は炊き込みご飯ではなく、葱などと煮たものをご飯の

上にかけた、「ぶっかけ」や「深川丼」といったものだったらしい。

 三田村鳶魚の書くところによれば、『鍋などというものは以下物

(いかもの)といって、武家でも町人でも、主人の前には出さないはず

のものである。蛤鍋なども、ヤタといって、縄のれんの中で片足を

持ち上げて、醤油樽の上に渡した板に腰掛けて食うもので、旦那とか

殿様とかいう人は知らないものなのである。』

さて、こうした下賎な食い物(イカモノ)も、池波正太郎の筆にかかると

実に旨そうなのです。

 秋山大治郎は、深川・島田町の裏長屋に、老母のおみねと二人きりで

暮らしている鰻売りの又八を尋ねる。又八の帰りを待つ大治郎に、

おみねは冷酒を湯のみ茶碗に入れて出す。そして、

『いまが旬の浅蜊の剥き身と葱の五分切を、薄味のだしもたっぷりと煮て
これを土鍋ごと持ち出して来たおみねは、汁もろともに炊きたてのご飯
にかけて大治郎に出した。
 深川の人びとは、これを「ぶっかけ」などとよぶ。
 それに大根の浅漬けのみの食膳であったが、大治郎は舌を鳴らさん
ばかりに四杯も食べてしまった。』

あまりの、おみねの手際の良さに、大治郎は遠慮する余裕も無く、

その旨さに、たちまち四杯食ってしまった。

こういうのは、旨い、、、、、、間違いなく、旨い、、、だろうね。

旦那とか殿様は、この旨さを知らなかったのだ、

可哀想に、、、、、、、。

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2006.09.03

『小鍋だて』、3

池波正太郎の書く「小鍋だて」というのは、

『長火鉢に、底の浅い土鍋がかかってい、三井さんは浅蜊の
むき身と白菜を煮ながら、飲んでいる。
 この夜、はじめて私は小鍋だてを見たのだった。
底の浅い小鍋へ出汁(だし)を張り、浅蜊と白菜をざっと煮ては、
小皿へ取り、柚子をかけて食べる。
 小鍋ゆえ、火の通りも早く、つぎ足す出汁もたちまち熱くなる。
これが小鍋だてのよいところだ。
 「小鍋だてはねえ、二種類か、せいぜい三種類。あんまり、
ごたごた入れたらどうしょうもない」と、三井さんはいった。』

「こんなものは若いもののするものじゃない」と、三井老人に言われた

池波も50を過ぎたころから、小鍋だての楽しみが本当に分かる様に

なってきた。

『鶏肉の細切れと焼き豆腐とタマネギを、マギーの固形スープを
溶かした小鍋の中で煮て、白コショウを振って食べる』

刺身にした後の鯛や白身の魚を軽く焼き、豆腐、ミツバと煮る、牡蠣

もいい、豚肉のロースの薄切りとほうれん草もいい。

これらに柚子をしぼりかけて、酒を飲むのは、こたえられないという。

ああ、いいですねぇ、、早く冬がこないものか、、、

けれど、長火鉢が無い。

こうして、ゆったり酒を飲む心のゆとりがない、、、、、、、、

『剣客商売』の舞台は大川(隅田川)から深川あたりの水路が四通八達

した地域、『深川めし』についても、池波正太郎は、、

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