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2006.08.30

『小鍋だて』、2

『樋口一葉 日記・書簡集』(ちくま文庫)に、

「、、浅ましき形の火桶に土瓶かけて小鍋だての面(おも)かげ
 何処にかある、、、、、」

とある。前後の詳細については略するが明治25年12月から

26年2月にかけての日記の項にある。一葉自身も生活に窮して

いたが、元旗本の稲葉家を訪れ、その零落したさまを書いたもの

である。「小鍋だて」についての脚注に次のようにある。

『小鍋で煮ながら食べること。ぜいたくな食事とされた。』

昔は、三千石の姫と呼ばれて優雅な生活をしていた人の困窮の

さまに、多少の原稿料が入ったこともあり、お歳暮として金子を

置いていく。そして一葉自身も食う為に原稿を書くことに煩悶する。

『家は貧苦せまりにせまりて口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず、
 老いたる母あり、妹あり、、、、、、』

、、、、、、、、、、、、、、、

長火鉢の前に座り、小鍋に少しずつ具を入れ

煮えたら食い、食ったらまた次を入れ食う。

なんとも、のんびりした風情ではある。

ぜいたくな食事であったのだ。

池波正太郎の書く、三井老人の小鍋だての描写は次の様、、、、、

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2006.08.29

『小鍋だて』、1

池波正太郎の小説には食い物の話がよく出てくる。

これが、実に旨そうなのだ。

『鬼平』『剣客商売』などテレビで放映される度、必ず食事の

シーンがある。手元にある『剣客商売読本』(新潮文庫)を見ても

食い物の話に多くの頁がさかれてある。

『小鍋だて』という項がある。以前別の本で読んで、実際やってみた

事がある。もとより、こうした鍋ものは冬の楽しみではある。

例年になく暑いこの時期に、小鍋だてについて考えるのも一つの

暑気払いではないか。

さて、『小鍋だて』についてこと改めて思い出したのは、

『樋口一葉 日記・書簡集』(ちくま文庫)を読んでいたときの事、、、、

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2006.08.27

江戸っ子

杉浦日向子の『一日江戸人』(小学館文庫)に、

これが『江戸っ子だ!』という一章がある。

眉の上下運動が激しく、まばたきが多く、思っていることが

すぐ顔に出る。なにかというと腕まくりをする。キチンとした格好が

出来ない。三田村鳶魚によれば、江戸っ子は半纏着で通した。

普通の人の着物を長着という。羽織なんぞは着た事が無い。

この格好では吉原に行っても入店できなかった、という。

さて、江戸っ子度のチェックリストというのがある、、、、

 ①衝動買いをすることがよくある。
 ②見栄っ張り。借金をしても、人におごる。
 ③早口だ。よく聞き返される。
 ④なんでも勝手に略語にしてしまう。
 ⑤気が短い。推理小説は、いつもはじめに結末のページを見てしまう。
 ⑥定食より丼飯のほうが好き。
 ⑦意外と潔癖。濡れたお箸を気味悪がる。
 ⑧下着は白、必ず毎日取り替える。
 ⑨行きつけの床屋がある。
 ⑩おしゃれに無頓着なように見えるが本人なりのこだわりがある。
 ⑪履物には金をかける。
 ⑫間食が好き。 
 ⑬入浴時間は十五分以内、熱い湯が好き。
 ⑭アガリ性。緊張すると怒っているように見える。
 ⑮異性交際がヘタ。いったんくっつくと泥沼。
 ⑯駄洒落が好き。人に嫌われるほど連発する。
 ⑰ウソ話を本気で聞いて、後で笑われることがよくある。
 ⑱涙もろいほうだ。

15以上あてはまれば、江戸っ子と名のれる、10以上は普通、

一ケタ台は並の田舎者ということになる、、、、、、、、

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2006.08.26

『ざまァ見ろ』、2

江戸っ子と粋がっていても、その生活はつつましいもの

だった。初鰹は一分(一両の四分の一)、一両10万円として

2万5千円、裏長屋の江戸っ子には高価なものだった。しかし

彼らは何人かで金を工面して一本を買い、それを切り分け皆で食した。

ほんの一週間ほど待てば驚くほど値段は下がったにもかかわらず、、。

褌や足袋は常に新しいものを身に付け、田舎者の煮〆たような褌

や継接ぎだらけの足袋を見れば笑いものにした。

彼らは少ない収入の中で精一杯、その日暮らしを謳歌しようとした。

『べらんめえ』とは『べらぼう』はらきているらしい。

『べらぼう』とは『この親不孝の穀潰(ごくつぶ)し』という意味で

飯粒を練って糊を作るのに竹べらと板を使う。飯を潰すのだから穀潰し、

なんの役にも立たない無駄飯食いだから「べら棒」と呼ばれた。

(萩谷 朴著『語源の快楽』)

こうした、べらんめえのにいさん達はちょっと景気が悪くなって仕事が

無くなるとすぐに生活に窮する。友達や長屋連中との付き合いが

出来なければ不義理となり、『ざまぁねぇ』ことになる。

もとより狭い地域で、もたれあって生きているのだから義理を欠けば

そこには居られず、出奔せざるを得ないということになる。

浅慮で、向こう見ずで、喧嘩っ早い。銭が無いのを「流れ川で尻(けつ)

を洗ったようだ」と自慢する。けれど彼らは常に自己批評する。

こうしてみると、『フーテンの寅さん』を見ているようだ。


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2006.08.23

『ざまァ見ろ』、1

ざまぁ、見やがれ、という啖呵は、江戸っ子が

権立や金の力で威張る者達に一泡食わせて、どうだと

粋がる場面によく発するものだと思っていた。

しかし、『ざまァ見ろ』という言葉は、人の失敗したのを傍観して

云う言葉ではなく、実は立派な自己批評の言葉であったらしい。

江戸っ子というのは、浅慮で向こう見ずで喧嘩っ早い。住む世界も

江戸市中とはいえ限られた狭い地域で暮らしていた。

彼らは無知でその日暮らしの生活をしていたが、友達の付き合い、

長屋の付き合いを欠けば、それが不義理であるという事は知っていた。

不義理なことをすることは恥かしいことであった。これは理屈でもなく、

学問によって得られたものでもなく自然と恥ということを知っていた。

そして、彼らは盛んに自己批評をする。外聞が悪いというのが、何より

彼らの道徳だった。

『ざまァ見ろ』というのは成功しても失敗しても、自分の姿を見よという。

実際、広辞苑で『ざまを見ろ』をひくと、『失敗したさまの醜さを知れの意

から転じて、人の失敗を罵っていう語』とある。

もともと、財産というものは無い、宵越しの金は持たないというが、実際は

持つ程の収入も無かった。江戸はそれでも大都会で飢えることもない。

財布に金が無いことを『流れ川で尻(けつ)を洗ったようだ』と自慢する。

しかし彼らは恥ということを知っていた。奇跡的に大金を手にすることが

あっても友達や長屋仲間と共に幸運を分かちあうというのは落語にある

話でもある。向こう三軒両隣とか小さな町内で生涯を終える彼らは、

常に人様の目を意識していた。そして、自分の様(ざま)を自己批評する。

『ざまァ見ろ』というのは、人様から見て恥かしい自分自身を戒める言葉

だった。

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2006.08.22

江戸っ子、3

三田村鳶魚の書く「江戸っ子」という人々は、

江戸では誰も相手にしない、その日暮らしの自由労働者で

日当は三匁ないし五匁、雨風の日には仕事は無いから月に

二十五、六日しか働けない。

初鰹を食うと云っても、初鰹は二朱、時には一分もするから

容易には口に入らなかった。そこで、着物、家財道具を売って

食った。実際、京の人のみならず江戸においても『明日の生活を

知らざるうつけ者』の集団であった。

江戸っ子が、田舎者に対して張る見栄というのは、せいぜい手ぬぐいの

新しいの、足袋の新しいの、褌の新しいのをそろえる、といった余り金の

かからない程度のことで、それでも精一杯の『江戸っ子』の演出であった。

しかし、こうした事が出来たのも天保の半ば頃まで、次第に景気が悪くな

り雨が降れば昔は脱ぎ捨てた草履は腰にはさみ足袋は懐に入れるとい

った情けない「江戸っ子」ばかりとなってきた。

『江戸っ子』と称するべらんめぇの兄ィ達はその時々の経済事情が生み出

した愛敬者達であった。

さて、散々鳶魚は『江戸っ子』の愚かさについて語るのだが、

彼らは、日々の生活のなかで義理を欠けば面目なく、それが『恥』であると

いうことを知っていた、という。

それが『ざまア見ろ』という言葉であるらしい、、、、、、

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2006.08.19

江戸っ子、2

三田村鳶魚はどうも、「江戸っ子」という人たちには

冷たいのです。「江戸っ子」が八百八町の江戸の住人を代表

しているように言われるのが我慢できないというのです。

江戸の人口(武家や坊主は除外されていた)は、町奉行の支配下

に属する町屋だけで、50万人と見なされていた。この一割位が

「江戸っ子」の名にふさわしい。しかし三代続かなければならないなど

の条件に照らし合わせると、その5%の2万5千人位の数にしか

ならない。詳細は省くが鳶魚のいう「江戸」という名称は、下町、

即ち千代田城の前、新橋から筋違見附までを江戸という。

こうした、『本場物』の2万5千人の八つァん熊さん、べらんめえの手合

は全江戸の住人にとっては、丁度いい見物であったという。

『おらァ江戸っ子だ』と自称する人たちが多くなったのは文化以来の事

で、これ以前には『江戸者』『東ッ子』などと呼んでいた。

文化文政の時代は通貨の改悪により、一時的にインフレ気味となり、

景気が良くなった。このころ固定的な雇用関係は衰え、

一時雇いが多くなった。かくして自由労働者という固定的な

主従関係から解放されたフリ―ター達は勝手気ままに「その日暮らし」

を謳歌するようになる。江戸名物の火事は、こうした自由人にとっては

もともと財産を持た無い事もあり、火事の後は労賃も上昇することもあり、

願っても無い『江戸の花』であった。だから、明日の心配は無用で

「宵越しの金」は持たないという気持ちにもなった。

しかし、こうした『江戸っ子』の生活というのは、世間一般の常識から

見れば、気の毒なものであったらしい。

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2006.08.18

江戸っ子、1

三田村鳶魚の、『鳶魚江戸文庫、9』(中公文庫)を読む。

先に書いた、『三都穴さがし』では江戸と京、大阪がお互い

罵りあうという設定である。京者が、鰹を食う為に蚊帳を質にいれ

祭りに出る為に娘を売る「うつけもの」と呼ぶ江戸者とは『江戸っ子』

を指す。『江戸っ子』というのは江戸に住まいする者の総称かと思って

いたが、なかなかにそう簡単なものではないらしい。

鳶魚にいわせれば、『江戸っ子というものは。浅慮で、向こう見ずで、

喧嘩ッ早い。』『この私どもが見ては甚だつまらない江戸っ子をものに

したのは芝居です。芝居だと、江戸っ子がいかにも活躍する。』

『金のしゃっちゃこを横目に睨んで、水道の水を産湯に浴び、おがみづき

の米を食って、日本橋の真ん中で育った金箔付の江戸っ子だ』と景気良く

言うのは、芝居の作者の作り事、実際の江戸っ子というのは、

『いよいよ本当の江戸っ子がやってきたら、多分諸君は逃げ出されるでしょう』

と三田村鳶魚は書いている。

多分、フーテンの寅さんは、何故か懐かしい人として最近取り上げられているが、

実際身近に接する機会があれば、困った人という事になるだろう。

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2006.08.14

『三都穴さがし』、6

京者からみれば、江戸の風の荒い事、火事の多い事は

あまりにも有名であった。 『風荒く火多く狗の糞多し』。

また、京者に言わせれば、江戸の自慢の水道の水は、

『泥 沙の雑る』ような汚水に過ぎず、まして大阪の水は、

『銭をだして常に飲む小便の水』としか思えなかった。

さて、三田村鳶魚の『鳶魚江戸文庫、9』(中公文庫)は江戸っ子」と

はなにかについて書かれてある。この本にも、

『上方で見られないことには、雨が横に降る。これはいつも風がある
からです。』

天気さえ良ければ空っ風が吹く。風が吹けば乾燥した道路の土が

まいあがり、『目かつら』と呼ぶ塵除け眼鏡をかけねばならず、白い

足袋などは一日で真黄色になるありさまであったという。更に江戸は

水利の悪い所で多額の普請をして水道を引いた。京者からすれば

泥混じりの汚水に思える水道の水を金を出して買う不思議な所であった。

鳶魚の書くところによれば、『一荷四文の水道を買う』ことが、江戸っ子

の自慢だったという。ようするに、金を出して買った水を朝顔の苗に

惜しげもなくかけながすのが江戸っ子の都会生活者としての粋だった。

従って、こうした生活態度は『初物の鰹』を食う為生活必需品をも売り、

祭りに出るため娘を売る、『明日の活計を知らざる空気(うつけ)者』

と京者には思えたのでありました。京者からすれば大阪者もまた、

江戸者同様、金を出して小便のような水を飲み、食い倒れにより金を

使い、頭を割るような喧嘩をしなからすぐ仲直りする江戸の職人同様、

大阪の町人は『只、頭勝ちを好む』、目立ちたがり屋に思えた。

まあ、こうして、京、大阪、江戸はお互い悪口を言い合うのであるが、

お互い庶民の立場の罪の無い物言いではあります。

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2006.08.10

『三都穴さがし』、5

   京者江戸を嘲ける  安穴道人

 風荒く火早く犬の糞多し
 汲立ての水道 泥 沙に雑る。
 かやを殺して鰹を買う食倒れの客
 娘を売って祭に出る浮気の爺(おやじ)
 喧嘩 頭を割つて中直(なかなおり)早く
 喪礼 桶を荷(かた)げて鼻歌はるかなり。
 身上 徒らに銅壺(どうこ)の蓋を磨ひて
 年中の上げ下げ質屋を頼む。

  京者大阪を笑ふ    すかたん

 神社仏閣 見るに足ら不(ず)
 芝居網船 気張つて行く。
 役者を贔屓して番付に列なり
 開帳を世話して身上傾く。
 皆食倒(くいだおれ)に因つて煮売おおく
 只頭勝(あたまかち)を好んで喧嘩争ふ。
 銭を出して常に飲む小便の水
 人に対して猶誇る魚と城と。

さて、京者も反撃にでるのである。「火事と喧嘩は江戸の華」、

食い倒れの大阪といった点はこの頃から常識であったんだね。

しかし、良く解からない点もある。

青木先生の解説を仰ぎましょう、、、、


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2006.08.09

『三都穴さがし』、4

『替物』の茄子の数に注文をつけ、『替物を、汁の実と為す』

というのは、当時の日本では下肥えに商品価値があったから

で、都市人口の増加とともに都市近郊の農地も拡大し必然的に

肥料の需要が急増した。江戸中期以降は供給が追いつかず、

糞尿の値段が急騰した。

京都においては、各家の前に小便桶がおかれ、農家は定期的に

それを回収し、その代金として茄子や大根などの野菜を置いて

いった。それが『替物』である。

別にこれは京都だけでなく、大阪も江戸も大都市では『替物』の

野菜に加えて、現金収入となった。江戸の長屋の大家の副収入は

長屋の共同便所の糞尿を下肥として売る事により得られた。

ようするに究極のリサイクルが江戸時代において行われていた。

かまどの灰までも回収され市中は実に清潔であったという。

京の綺麗な女たちが、家々の前の小便桶に優雅に立ち小便をし、

『替物の茄子』の数の多少に目くじらをたてたとしても、

江戸者、大阪者にとやかく言われる事では無かったのでした。

さて、当然ながら、京も江戸、大阪に反撃するのであります、、、、

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2006.08.07

『三都穴さがし』、3

フーテンの寅さんの、口上に、

『、、四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水
粋な姐ちゃん立ちションベン、、、、』なんてのがあるけど、

粋なネエチャンが立ちションベンをしたのだろうか?

『三都穴さがし』にも、『女 綺麗といへども立ち小便』とあるが

本当だろうか?

かねがね疑問に思っていたのだが、先日(とはいっても3年程前)

『はばかりながら「トイレと文化」考』(文春文庫)を読み、

これらの疑問が氷解したのであります。

江戸の戯作者曲亭馬琴の著述に、京の女性の立ち小便について

書かれた物があるらしいが、当時は江戸とその周辺以外の所では

女性の立小便はむしろ普通のことであったという。

太宰治の「斜陽」にも、やんごとなき生まれのお母様が娘の見ている

前で、庭で上品に立ち小便をなさるさまが描かれている。

奥ゆかしい京女も、ルイ王朝の貴婦人達も宮廷の庭で立ったままなさ

っていた事を考えれば、「粋なネエチャンの立ちションベン」は

別に驚くに値しないのでした。

明治41年になっても、福岡県の教育者たちは女学生の立ち小便を

どう止めさせるかについて真面目に論じたそうだ。

時代が変わり文化も変わって、

現代は、男たちが「座り小便」をするようになったのでした。

さて、『替物の茄子』というのはなんなんだろう?

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2006.08.04

『三都穴さがし』、2

ようするに、江戸者、大阪者がケチをつけるのは、

『京の着倒れ』で、見かけは美しいが暮らしはつつましい、と

いう事である。

京都は確かに緑豊かで水は旨い。

けれど、人々は体裁ばかりかまって、その実、台所は苦しい。

帯はビロードなんて高価なものを使用するが買うのはおから(きらず)。

器には高価な食器を使うが、その中に盛るものは、煎枯(いりから)。

この「いりから」というのは鯨の皮の乾燥したものらしい。

まあ、このころ京都というのは新しい魚なんてものは手に入らず、

干物か塩乾物が多かったんでしょうね。

次にケチをつけるのは『勘定高く、人情薄い』というという点。

『勘定綿密人情疎し』。まあ、考えてみれば千年の帝の都であったには

違いないが、帝に近づく者たちは総て、官位が欲しいというだけ。

勘定高くなってもしょうがない。ようするに観光地、(それも筋金入りの)

なんでしょうね。

別にこの狂歌の意味するのは

遊郭の女達の客あしらいの冷たさという点もあるらしい。

江戸の遊女には意気地を通して金は二の次という者もいたらしいが

京の遊女は総て算盤ずく、立て引くような事はしなかったという。

さて、有名な話に『ぶぶづけでもどうどす?』なんて言われて、

「はい、頂きます」なんていうのは田舎者、というのがあったけど、

『客人まさに帰らんとする節、しきりに支度を勧める、是は全くの嘘』

どうなんだろう?。

ずっと昔、この話は本当?と京都出身の人に聞いたら、

「そういうふうに考える事自体が、田舎者なのね、、」と言われた。

別に、お茶漬けなんぞ喰いたくもないけど。好意を無にするのは

悪いと思うから、「はぁ、いただきます」なんて言ってしまうだけどね。

さて、『女 綺麗といえども立ち小便』とは、

なんなんだろう、、、、、、、、?

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2006.08.03

『三都穴さがし』、1

三都とは、東京、京都、大阪である。

この三都がお互いにボロクソに罵りあう狂詩というのがある。

これまた青木正児の全集に載る文章から引用する。

文政年間、安穴道人と鄒可潭(すかたん)の作によるらしい。

   『江戸者京を嘲ける』  安穴道人

 木高く水清く食ひ物稀なり
 人人表(おもて)を飾つて内証晞(かは)く。
 牛糞の路は大津に連つて滑かに
 茶粥の音は叡山に向つて飛ぶ。
 算盤出合(であひ) 立て引き無く
 筋壁(すじかべ)連中 権威を假る。
 女 綺麗と雖も立ち小便
 替物(かえもの)の茄子(なすび) 数の違んことをおそれる。
       又
 常に石橋を叩ひて蘆を渡るが如く
 畢竟皆銭廻りの無きが為なり。
 勝手の吝嗇 総て目を眠り
 上辺(うわべ)の追従(ついしょう) 膚を許し難し。
 帯はびろうどを絞めて不切(きらず)を買ひ
 鉢は南京を使ふて煎枯(いりから)を出す。
 最憐む歴歴の御見物
 各握り飯を包んで花の都を出づ。

    『大阪者京を笑ふ』  すかたん

 勘定綿密 人情疎し
 物の入らざる事無上に誉む
 みだりに近付(ちかづき)を尋ねて茶屋を倒し
 或は手筋を頼って芝居を乾かす。
 小便の替へ物 汁の実と為し
 紙くずの直売り干魚を買ふ。
 笑ふに堪たり客人まさに帰らんとする節
 頻に支度を進めて みすみす是嘘。

いやはや、だいたいの意味はなんとなく解かるようだが、

ちょっと解説が必要みたい、、、、

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2006.08.02

『清風名月壱銭の買を用ひず』、2

出雲路橋の欄干で、涼風に吹かれ、月を愛でながら

若き青木迷陽先生は、李白の言葉を思い起こして、

『さうだ此位安価な楽は無からう』と思う。

『贅を尽した都会趣味の歓楽も未だかって人に満足を与えた事を
 聞かない。如何に精巧を尽した人工の美も、これで十分という
 域に達したものは未だ誰も見まい。夕顔棚の下涼みに却て真
 の満足は見出され、松の葉越の磯辺の月に、千古変らぬ美の
 無尽蔵は窺われる。』

29歳の青木正児は、都会の喧騒の中で多くの若者が西洋近代の

文芸に酔いしれているなか、独りカビ臭い『離騒』を読み続ける自分

のような男がいてもいいのではないか、と思う。

『造化は万物に数限り無き不平均を与えた。その不平均が屈曲参差
 した所に人生の甘味はある。皆が新しい物新しい物と同一方向に
 走ったならば誰も古い事をやる人は無くなる。皆が皆社会の好地位
 を占めたならば、低い地位には誰がなるか。都会は此如何ともする
 能はざる造化の不平均に不満を懐く人々の闘争場である。人を踏み
 つけても自己の利益を図ろうとし、或は又自己の天賦以上に虚偽の
 広告をなす人たちの酸臭極まる修羅道である。』

若き青木先生は苛立つのです。京都特有の蒸し暑さの中、独り涼を

求めて鴨川堤を歩き、ようやく出雲橋の欄干にもたれて月を見て、

『三つ目錐で膝を刺され』るような都会の生活から逃れたいと

思う。

『住めば都に思ひの増すに月と入らばや山の端に』

あの山の彼方に理想郷があるのではないか、、、、、、

しかし、青木先生は考え直す。

考えてみると都会の生活に疲れた頭で田園の風物に接するから、

一層印象が深いのではないか、、、

『都会に居て田舎を恋ふてこそ一入風情もまさる。兼好も
「垂れこめて月を思ふ」と言った。、、淵明は何処に住んだか、』

かくして青木迷陽先生はこの後、支那文学に生涯を費やす。

その住まいを、『守拙廬』と名づけた。

陶淵明の『拙を守りて園田に帰る』に拠る、、、

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2006.08.01

「清風名月壱銭の買を用ひず」、1

暑い。今年の夏は特別蒸し暑い。

長雨が続いたせいだろうか、、、、。

青木正児全集(春秋社)第七巻をパラパラ拾い読みする。

青木迷陽先生29歳の時に書いた『出雲路橋に立って』を読む。

京都の夏は暑い。迷陽先生は室内の暑さに追い出されて、

夕暮れの鴨川堤を独り歩き、いつしか出雲路橋にたどり着いた。

四条は勿論、三条、二条の賑いから遠く離れて、

出雲路橋の欄干は涼風心地よく、折りしも月も見え、

野趣がぞくぞくする程嬉しく胸に迫ってくる。

大正四年の京都の夏であります。

『此の月光、此の水の色、此の涼風、橋に立つ者は何と云ふ幸福な
 身であらう。』

李白は、『清風名月壱銭の買を用ひず』と云った。

そして若き青木迷陽先生は考える、、、、、、、

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