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2006.04.28

顕 夢 明 恵

『あかあかやあかあかあかやあかあかや
                あかあかあかやあかあかや月』

『明恵はおどろくべき夢見の人であった。
 彼の身体は夢に洗われ、烏賊のように発光する。』
                 (上田三四二)

明恵は夢を見る。十九の年から四十年間、日記のように

夢を記した。白州正子は次のように書く、

『孤独な彼にとって、夢はかけがいのない先生であり、修行の
 場でもあった。ということは、自ら師であり、弟子でもあったと
 いうわけで、「夢の記」は、彼の内部で行われた精神的な葛藤
 と見ることができます。夢で感得したところを、覚めて実行に
 移し、実際の行動を、更に夢の中でたしかめる、そんな風に
 発展して行く彼の夢は、正に創作の名にふさわしいものです。』

限りなく肉体を痛めつけ、肉体の持つ世俗的な欲望を消し去ろうと

した結果、明恵の肉体は限りなく透明に近くなる。その透明な容器に

なだれ込むものは夢であった。彼は夢に生きる。

彼は天竺に憧れる、それは釈迦に恋したからだった。

『明恵のいま、ここに、われありは、いま、ここに、夢ありと言い直して
もよいほどだ。』(上田三四二)

夢のなかで、彼は天竺にいたり、時間を超えて釈迦に出会う、、、、、

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2006.04.24

顕 夢 明 恵

上田三四二著『この世 この生』(新潮文庫)

『、、明恵の体は澄んでゆく。もともと無きに等しかった肉の
 灰汁(あく)はいやが上にも抜かれ、明恵は透明になり、
 軽くなり、山中の希薄な空気に慣れた身は、世俗のよどんだ
 空気の中では一尺浮くようになる。』

白州正子著『明恵上人』(新潮社)を読むと、明恵の人となりが、

私のような者にもぼんやり見えてくる。

明恵は1173年、紀州有田郡の豪族の子として生をうけた。

幸福な幼年時代を過ごすも、八歳で母を亡くし、父もまた戦死

する。両親を失った明恵は九歳で高尾山に入り十六歳で出家

する。

白州正子は、明恵には武士のいさぎよさがあるというが、

その生涯は奇矯ともいえるほど自己に対して厳しい。

十三歳の時、明恵はこう思った。

『今は早十三になりぬ。既に年老いたり。死なん事近づきぬらん。
 老少不定の習ひに、今まで生きたるこそ不思議なれ。』

肉体があるから、苦悩や煩悶が生ずるのだ、いっそのこと死んで

しまおうと、風葬の場に行き死体のなかに横たわる。夜ふけて野犬の

群れが傍らの死人を喰う音に恐れおののくが、明恵の体は匂いを嗅ぐ

だけで事なきを得た。十三歳で年老いたと感じ自殺を試みた明恵は

この後も自身の肉体を痛めつける。

二十四歳の時、彼は感極まって右の耳を切り落とす。

仏道に帰依しようと思っても、肉体は「五味の味をのみ貪る」ことを

止めない。「道の為に身をやつさば、眼をもくじり、鼻をも切り、耳をもそぎ、

手足をも断ち尽すべし」。しかし、眼をくりぬけば経を読めない、鼻を切れば

鼻水が垂れて経をけがす、手を切れば印を結ぶたよりをうしなう。ただ耳

ばかりは、切っても聞くに妨げもない、世間からは片輪者として見捨てられ

出世や栄華を思うこともなかろうと、自ら剃刀を取り右の耳を切り落とす、、

、、、、、、、


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2006.04.22

地上一尺の明恵上人

上田三四二著「この世 この生」に、

『西行を地上一寸とすれば明恵は地上一尺である。良寛の
足は地に着いている。
明恵が語りにくいのは、彼が路を行くときもその足は地上一尺
を踏んでいるからだ。』、とある。

「徒然草」に、男が川で馬を洗うのに足を上げさせようとして

「足、足」と叱りつけていたら、弟子を連れたなにやら高貴な坊さま

がこの声を耳にして、ひどく感心した様子で立ち止まった。

この高貴な坊さまは「アシ、アシ」という言葉を「阿字、阿字」と聞いた。

「阿字」とは万有の根源を象徴する文字とされ、一切諸法不生不滅を

意味する。この坊さま(明恵)はこの男が馬を洗いながら「阿字」の真言

を唱える功徳ある人と思った。これに感じて男に馬の持ち主の名を問うと

「府生殿」と答えた。この「府生」というのを「不生」と聞いた偉い坊さまは

「阿字本不生」という尊き名号を唱えた男に感動して感涙にむせぶ。

俗の男と聖人との言葉の取り違えの笑い話として語られるこの話は

明恵上人の人となりを伝える説話であろうと上田三四二はいう。

馬を洗っていた下人はさぞかし困惑したであろう。変な坊さまが突然

礼拝せんばかりに親しみをこめて近づき、馬の持ち主の名を言えば

さらに感動して涙を流す。しかし明恵上人にとっては「足」と「阿字」とを

聞き間違えたといった反省は終生一切生まれなかった。

明恵にとって「足」は「阿字」であり、「府生」は「不生」であった。

馬を洗う下人は、府生殿に仕える男ではなく、仏生を具えた明恵と同列

の一人の人間として、明恵には認識された。仏生は人間のみならず

蟻、けら、犬、カラスにいたるまで一切平等の存在としてあるものと

明恵には思えた。

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2006.04.20

桜⑥(西行と明恵)

Sidare
白州正子著『西行』の末にある、西行関係略年表を

見ると、彼の生きた時代が歴史の過渡期の激動の時期で

あったことが実感できる。

吉本隆明の『西行小論』には次のようにある、

『西行が生涯をかけて生きたのは、ちょうど崇徳、後白河両派が
政権と愛欲の問題をからめてあらそった保元、平治の乱の内乱
をへて、平氏を中心とする貴族、武家の合併時代がしばらくつづき、
やがて束の間のうちに反平氏勢力による鹿谷の陰謀事件となり、
それが治承四年の頼政、頼朝、義仲の挙兵にまで発展し、ふた
たび源氏内部の争いをへて鎌倉幕府の成立となるというような、
貴族社会の没落と武士階級の興隆を象徴するあわただしい過渡期
の動乱であった。』

あまりに自意識の強い西行には、貴族社会の家人であることには

耐えられず、さりとて山野に死闘する野人として動乱に参加する事

もできなかった。彼が選んだのは自身の苦悩と同時に時代の苦悩

をも背負い込んで生きる、思想詩人としての行き方だった。

西行年表をみると、「文治二年、69歳。東大寺料勧進のため陸奥国

平泉に赴き、途中源頼朝と会見。」とある。

白州正子『西行』には、文治二年八月十五日鎌倉に到着した西行が

頼朝と会見する次第を次のように書いている。

『その日頼朝は鶴ヶ丘八幡宮に参詣していたが、一人の老僧が鳥居
のあたりを徘徊しているので、怪しんで名字を問うと、「佐藤兵衛尉憲
清法師、今は西行と号す」と答えたので』、頼朝は、和歌のことを尋ね
たいと謁見し伝えた。『このあたりいかにも頼朝に見つかることを予測
して、わざとうろついていたようにみえるが、俗名を名のったのも、かって
の勇名を関東武士に印象づけるためではなかったか。』

このあと西行は頼朝と夜を徹して歓談におよぶのだが、終始頼朝に対し

人を喰った対応に徹する。あくる日頼朝は退出する西行に銀作りの猫を

贈るが、西行はその高価な品を門外で遊ぶ子供に惜しげもなく与え、

奥州へと向かう。

吉本隆明はいう。

『過渡期の内乱と政争を否定して、詩人として生きることを思いきめたとき
から、かれがゆくべきみちは、いかにして、じぶんのこころに映った動乱
に、体系を与えて安心立命をえるかということのほかにはなかったはずで
あった。もちろん、西行には安心立命はやってこなかった』

さて、西行年譜に『文治四年、西行七十一歳。明恵出家。』とある。

この明恵という人は、、、、、、、、

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2006.04.19

桜⑤(西行と明恵)

Asuwakawa2

若き日の西行は、相当の癇癪持ちで、好き嫌いのはっきり

した荒々しい気質で少なくとも生まれついての風雅な歌人

では無かった。「西行物語」では親友の突然の死に世を

はかなんで出家したとあり、「源平盛衰記」ではやんごとなき

高貴な女性への恋が原因とされている。

白州正子は出家の原因は、西行自身の内面の荒々しさを

鎮めるため仏道に救いを求めた結果であって、親友の急死も恋も

そのきっかけにすぎない。天性の歌人の資質を持った西行は歌を

詠む、歌によって苦悩する魂を解放しようと試みる。

出家してしばらくは都を離れがたかった西行も、『花に心をかけて

詠ぜんがため』、一人みすぼらしい姿で吉野山へと向かう。

以来西行は毎年のように吉野山に入り、桜を詠む。

吉野山に入り実際に吉野の桜を見て歌を詠んだ歌人は西行以前

にはほとんどいない。

『吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき』

西行は、人を恋するように花にうつつをぬかし、

心は身を離れ浮遊する、、、、、

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2006.04.17

桜④(西行と明恵)

Asuwakawa1
  「しづかにならんと思いける頃、
            花見に人々まうできたりければ」

『花見にと群れつつ人の来るのみぞ
                  あたら桜の科(とが)には有ける』

西行はこの歌を、「花の寺」で詠んだという。

「花の寺」、正しくは大原院勝持寺、大原野神社の供養寺であった

という。西行の遺跡は京都の至るところにあるが、この「花の寺」は

名だたる桜の名所であり、西行隠遁の地にはふさわしい。

さて、この歌はせっかくひとり静かに暮らそうとしているのに、花見の

客が大勢来てうるさい、そしてそれを桜のせいにしている。

桜にしてみれば、いい迷惑である。自然の摂理で花をつけたに過ぎぬ

のに、花見客が大勢おしかけ、頼みもしないのに世を捨てた西行は

その騒々しさを花のせいにする。

若き西行の苛立たしい気持ちがみえる。

 『世の中を捨てて捨てえぬ心地して
                  都離れぬ我身なりけり』

 『捨てたれど隠れて住まぬ人になれば
                  なほ世にあるに似たるなりけり』

白州正子はいう。
 「出家はしても一途に仏道に打ちこむわけでもなく、歌を詠ん
 でも俊成・定家のような専門歌人ではない。ともすれば『そら
 になる心』を扱いかねて、『わが身をさてもいづちかもせん』と
 苦悩する魂を歌によって解放しようと試みる。解放しようとすれ
 ばする程、自意識は深まるばかりで、西行が辿った道に終わり
 はないのである。」

西行年譜をみると、二十三歳で出家している。

西行の家系は、平将門の乱を平定した勇者、俵藤太秀郷にさか

のぼる。武勇の誉れ高い家柄で義清(西行)も心身ともに健康で

弓馬の道にも秀でていて「重代の勇士」の誇りと強さを持っていた。

こうした北面の武士の荒々しい気質を持つ義清は何故、出家を

決意したのだろう、、、、、

『西行物語絵巻』(鎌倉中期)には、出家を思い立ち幼い娘を蹴落とす

義清(西行)が描かれている。

古今著聞集には

『(西行は)世をのがれ身を捨てたれども、心はなほむかしにかはらず、
 たてだてしかりけるなり』

とあるらしい。

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2006.04.15

桜③(西行と明恵)

Asuwa2
『願はくは花のしたにて春死なむ
          そのきさらぎの望月(もちづき)のころ』

「山家集」のこの歌は、西行の死に先立つこと十年の作。

如月十五日の釈迦入滅の日に、花の爛漫月の清明を仏道成就の

道しるべとして、西行は彼岸に渡りたいと望み続けた。そして、

文治六年二月十六日、七十三歳で望みどうり死んだ。

『来む世には心のうちにあらはさむ
                  あかでやみぬる月の光を』

『仏には桜の花をたてまつれ
               我が後の世を人とぶらはば』

『吉野山こずゑの花を見し日より
                心は身にもそはずなりにき』


『、、花月に憬れる心は、ともすれば「心は身にもそはずなりにき」の
 歌のとおり身を離れようとし、身は忘れがちになる。それが西行の
 生のかたちであり、彼の出家の意味であった。そしてそのとき、
 離れて行く心を身が離すまいとすれば、、、身は心の錘となって
 ぶら下がり、こうして西行の身は地上からほんのすこしーたぶん一寸
 ほど、浮き上がっている。』
                   上田三四二『この世 この生』

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2006.04.14

さくら②(西行と明恵)

P4110044
P4110046
上田三四二著「この世 この生」の目次には、

『花月 西行』

『遊戯 良寛』

『顕夢 明恵』

『透脱 道元』

『地球 浄土』

『地上一寸ということーあとがきに代えて』、とある。

地上からほんの少し、たぶん一寸ほど、西行の身は浮き上がって

いる。そして、明恵は一尺地上から浮き上がっている、と

上田三四二はいう、、、、、。

西行法師、明恵上人。この二人はどんな人だったんだろう。

そんなこと思いながら、花と月を見る。

白州正子著『西行』、『明恵上人』を読む、、、、、

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2006.04.12

桜①

Outou
『死ねばみな黄泉(よみ)にゆくとはしらずして
              ほとけの国をねがふおろかさ』

本居宣長は、死後の世界になんの期待も持っていなかった。

極楽浄土なぞ、絵空事だと言っている。

黄泉とは恐ろしいところ、けれど死ねばそこへ行く。

『黄泉にくらべれば、生きていまある現世は、憂き世だとか何だとか
 言ったところで、どれほどましな場所かわからない。死後の世界は
 光明の浄土ではなく暗黒の黄泉であるゆえに、わが死後を出来る
 だけ黄泉にとおいものに、すなわち現世のつづきの場所と状態に
 とどめて置きたい。その夢のかたちにあらわれたものが山室の墓所
 だった』

そして、宣長は墓所に、「随分花のよろしき」山桜を植えることにした。

吉田兼好が『命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十に足らぬほどにて

死なんこそ、めやすけるべけれ』と「徒然草」で述べたことに宣長は

反論する。

『人のまごころは、いかにわびしき身も、はやくしなばやとはおもはず、命
 をしまぬものはなし』

吉田兼好は、明日死ぬと思えと言う。思うだけでなく、真実、明日死ぬのが

人間の命だと言う。さいわい明日死ぬことをまぬがれたものも、明後日を

期することは出来ないだろうと言う。

しかし吉田兼好は来世を信じて、現世を軽蔑する人ではなかった。

宣長同様、来世そのものを信じていなかった。

「人は四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」と言うのは、

生きることの価値を問うて、老の醜さを否定しているのである。

それは若い兼好のダンディズムだった。

(上田三四二著「この世 この生」から引用しています)

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2006.04.11

花の覚え書き77(さくら)

Sakura2
Sakura1
桜の花が咲いている。

今年は梅も桜もしだれ桜も

同じように咲き出した。

桜が日本人は大好きなのだ。

『古事記』や『日本書紀』にも桜は

登場する。単にその美しさだけでなく一年の生産の前触れと

して重要視された。万葉集に、

『此花の一弁(ひとよ)の内に百種(ももくさ)の
                  言(こと)ぞこもれるおほろかにすな』

とあるらしい。

本居宣長は桜が大好きだった。自身の墓地を定めたとき、

その山上の墓地に山桜を植えさせた。そして二首の歌を詠んだ。

『山むろにちとせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ見め』

『今よりははかなき身とはなげかじよ千代のすみかをもとめえつれば』

さても、自身の墓所も定め山桜も植えることに決め、

悠々として駘蕩たる気分にみえる宣長は翌年がらりと変わって

次のように歌う。

『死ねばみな黄泉にゆくとはしらずしてほとけの国をねがふおろかさ』

『よみの国おもはばなどかうしとてもあたら此世をいとひすつべき』

本居宣長は死後の世界になんの期待も持たなかった。

けれど彼は心をつくして眺めのいいところに墓を作り、随分花の宜しきを

吟味して山桜を一本植えるように、何故、指示したのか?

「宣長は桜を一種の呪物として死後を現世につなぎ、黄泉の闇と穢れを
 祓おうとしている」

上田三四二著『この世 この生』(新潮文庫)を読む、、、、、、、、、、

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2006.04.08

花の覚え書き76

407
408
山沿いの側溝の日陰のところに

咲いていました。

この花の名前、図鑑で調べても

分からない、、、、

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2006.04.07

花の覚え書き75(土筆)

Tukusi
「つくしはスギナの子」というが、

これも一種の花であるらしい。つくしの袴は

葉の変形。昨年は沢山摘んで佃煮ふうに煮付けて

食べました。

今年はまだ数少ないので写真を撮るだけにしました。

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2006.04.06

花の覚え書き74(猩々袴)

Syoujyoubakama
山に面した道路横の小さな小川の

斜面に薄紫の花をつけていました。

「ショウジョウバカマ」というのだそうです。

紅紫色の花を猩々(ショウジョウ)に、ロゼット状の根葉を

袴に見立てて名づけられたという。

「猩々』というのはオランウータンのことを指すと思っていたが、

中国での想像上の怪獣、人に似て体は狗の如し、声は小児の如く、

毛良く、その毛色は朱紅色、面貌人に類し、よく人語を解し、酒を

好む。またよく酒を飲む人をいう、と広辞苑にある。

猩々の意味を調べてから、

袴をつけほんのり酒に酔ってつつましく咲いているこの花が

大好きになりました。

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2006.04.04

梅⑫(菅原道真)

Koubai1
Koubai2
梅が日本に渡来したのは奈良時代以前のこと、

遣隋使か遣唐使が持ち帰った。

万葉集には百十八首、桜の五十首の二倍以上。

万葉の時代は白梅だけのようらしい。

紅梅が中国からもたらされたのは九世紀。

菅原道真は梅を愛した。筑紫の大宰府に流される時、

自宅の紅梅に、『東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花

あるじなしとて春な忘れそ』と詠んだ。

この梅はあるじを慕って大宰府まで飛んできた。

飛び梅伝説であるが、この伝説は鎌倉時代に作られたらしい。

大宰府天満宮に現在ある「飛び梅」は白梅であるが、

道真が愛した自宅の庭の梅は紅梅であったらしい。

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2006.04.02

梅⑪(毛沢東)

高島俊男が訳している毛沢東の詞。

1936年、延安での作。(毛沢東44歳)

   『泌園春・雪』

 北国の風光
 千里、氷はとざし、
 万里、雪は舞う。
 長城の内外を望めばただ茫々。
 大河の上下は、
 突然その流れを止めた。
 山に銀の蛇舞い野に蝋の象駆け、
 もし天の高さにまで登れば、
 陽光に盛装と地味ななりと、

 さぞなまめくことであろう。
 山河はかくのごとく魅力あふれ、
 無数の英雄がこぞってひざまづいた。
 惜しいかな秦始皇・漢武帝は詩文を解せず、
 唐太宗・宋太祖も風雅に劣る。
 一代のわがままもの、
 ジンギスカンは、
 弓を引いて大鷲を射落とすことしか知らぬ。
 みな過去の人となった!文雅の人物は、
 やはり今日を看よ。

高島さんの要訳によれば、

(中国の自然は美しい。昔からあまたの英雄豪傑がこの中国
 をまるごと自分のものにしようとした。それに成功した人たち、
 秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗、あるいは元のジンギスカン、
 みな勇力にはすぐれていたが肝腎の文化的教養がなかった。
 文化的教養を身にそなえながら天下を我がものとした人物は
 いないのか。-それはほら、君の目の前にいる男を見て
 ほしい。)

まぁ、この詞の豪放磊落で雄大なことは、なんとなく分かる。

高島さんによれば、この詞は複雑なルールも完璧にクリアーして、

しかも殺伐、傲慢にもなりかねない内容が、優雅で華麗に

まとめられていて、毛沢東の文化的教養の高さを示しているらしい。

そして、12年後、毛沢東は中華人民共和国を建国し

その主席となった。

中国人の一番好む花は梅であるらしい。

風雪にうたれても、孤高を保って咲く梅を『気節に富む』として

好むらしい。

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