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2006.03.31

梅⑩(毛沢東)

高島俊男は『中国の大盗賊』で、毛沢東を称して、

「これぞキワメツケ最後の盗賊皇帝」と書いているが、

毛沢東の文才については認めているのである。

『毛沢東という人は、乱暴者という点ではそれは人なみ
 はずれた乱暴者であるが、野蛮で無教養な男ではない。
 それどころか、まことに文雅な教養人であった。そこが
 歴代の盗賊皇帝とは決定的にちがう点である。』

毛沢東は西洋的教養とは縁のない、生粋の伝統的中国文化人

であった。毛沢東が得意だったのは『詞』(ツー)だった。

梅を詠った陸游の「詠梅」には「朴算子」とある。「朴算子」とは宋時代

に流行した詩の一種『詞』(ツー)の形式のひとつであるらしい。

毛沢東がこの詞をふまえて「詠梅」を作ったことは前に書いた。

『詞』(ツー)というのは、『詩』よりもさらに規則が厳格で難しいらしい。

日本人は「漢詩」と称して『詩』は多く作った。菅原道真などは有名で

中国人も感嘆したという。夏目漱石の趣味は、漢詩を作ることで、

その難しい規則をクリアして作詩するのが無上の楽しみであったらしい。

しかし、日本人には『詞』(ツー)は無理だったらしい。

これほど難しい『詞』(ツー)を毛沢東は多く作った。あの、悪口好きの

高島俊男が、『その「詞」はたいへんいい。単に上手だというだけでなく、

雄渾で英雄の気概があふれている。しかも単に豪放だというのではなく

て、言葉の運用のセンスがいいのである。』とべた誉めしている

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2006.03.30

梅⑨(毛沢東)

寺山修司が、『一言で言えば、毛沢東は「持久の人」である』

と書いているが、毛沢東の「革命成就」までの日々はひたすら

耐え忍ぶ毎日であった。設立当初の中国共産党の幹部となるが、

インテリの多い幹部のなかで毛沢東は退屈な日々を送る。

1927年蒋介石は、北伐の成果をもとに共産党と袂を分かち、

南京に国民党政府を樹立する。国民党から追い出された共産党は

武闘路線へと方針転換し、軍隊、農村で暴動をおこすことにした。

高島俊男によれば、毛沢東という人は体が丈夫で、頭が良くて、意志

が強くて、なによりも「乱」の好きな人だったから、武闘路線に転じた

中国共産党で俄然、張り切ることになる。張り切って暴動を指揮するが

たちまち国民党軍に破れ、毛沢東は敗残兵千人ほどを引き連れ、

井岡山に逃げ込む。

ここらへんの所を竹内実は次のように書いている。

『彼は党の命令を受けると、その年の秋の農民の蜂起を指導する。しかし、
 それが失敗すると、党中央の主導権争いや理論闘争にはいささかの
 未練もなく、わずか千人未満の兵力を率いて、井岡山に登ってしまう。
 党中央に対して叛旗をひるがえしたといっていいすぎになるなら、中国
 革命に対して、革命的批判を開始したといってよい。
 だが、まるで『水滸伝』を地でいったとしか思えない彼の行動は、
 党中央の批難の的となった。』

毛沢東は、梁山に登り、朱元璋、李自成らが成功したように

盗賊から帝王への道を歩みだす。そのなまりのぬけない

言葉によって農民たちに信頼を得ることとなる。

毛沢東のその後については、もういいでしょう。

高島俊男によれば、20世紀の歴史というのは、近代化の歴史

なんだが、中国という所はポッカリ取り残されて五百年前、千年前と

同様な社会だった。毛沢東が水滸伝の英雄のように活躍できたのは

ひたすらこの事由による。

寺山修司は言う、訛の強い言葉で農民に語りかけていた言葉
 
にはイデオロギーではない劇的葛藤を感じるが、「国家」という形に

基づいた毛沢東の言葉には、にんげんの体温、手ざわりを感じない。

中国的なものは大好きなんだが、『中国』は嫌いなのだ。あらゆる

『国家』が好きになれないと同じ理由で。

中国では、歴史的に認められる王朝というのは『正史』が決める。

『正史』は次の政府が作る。『正史』の「本紀」に載せられて初めて

歴史的に認められた王朝(皇帝)となる。それ以外は「僭称」ということ

になる。毛沢東の樹立した中華人民共和国は、中国の歴史から

みれば、未だ数行にしか過ぎない。「本紀」に載せられるに為には

強くて長続きしなければならない。長続きしなければ毛沢東は

「盗賊」ということになる。世界中がこの巨大な国家の急激な近代化

の行き先を見つめている。

さて、こうして毛沢東について考えると破天荒な豪傑のように見える

が、高島俊男によると『まことに文雅な教養人であった』らしい。

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2006.03.28

梅⑧(毛沢東)

さて、高島俊男『中国の大盗賊・完全版』(講談社現代新書)

を読む。当初、高島俊男の意図は毛沢東を描くことだった。

1989年『中国の大盗賊』の元版が出版された。けれど高島の

意図とは異なり、出版社により、歴史上の盗賊皇帝の

記述が主となり、著者の最も書きたかった毛沢東部分は、

つけたしとなってしまった。

『中国の大盗賊・完全版』に書かれる盗賊皇帝は、漢の高祖劉邦、

明の太祖朱元璋、明を倒して40日で満州族の清に破れた李自成、

清の末期太平天国の乱を起こした洪秀全、そして毛沢東である。

それぞれの話は実に面白い。ようするに中国の歴史から見れば

毛沢東も、天下をねらう『大盗』の系譜に属する一人にすぎない。

そして彼によって成立した中華人民共和国は、過去の歴代王朝と

変わらない『帝国』なのだ。「帝国」というのは、一切の権力を共産党

が握っているという事だけでなく国民の自由な発言や行動が縛られて

いるという国家ということになる。

日本にも豊臣秀吉のように一介の農民から天下を取った人もいるが、

常に天皇という絶対の存在があった。

けれど中国の漢民族の考え方というのは、違うみたいだ。

鳥山喜一『黄河の水』(角川文庫)には次のようにある。

『武力をもって、新しい国を建てることを、放伐という。漢民族の教えで
 は、天下を治めるのは天であるが、しかし天は手も口もないから、
 天のような、情け深くて公平な心をもつ人に、その命すなわち天命を
 伝えて代理をさせる。天子はその文字のとおり、天の子ということで
 す。、、、だからいつでもいちばんよく天の心にかなうような政治をする
 人は、たとい、農民の子であっても、また罪人の子であっても、、天子
 になれる。、、、天の心にそむく者は天子のねうちがない者として、、
 攻め滅ぼされ、殺されてもいいというのが漢民族の考え方なのです。
 かく天命が革(あらたま)ることを、革命というのです。』

日本人は、『革命』という言葉に特別の感情をもつが、なんのことは無い

中国では古代から使われていた。

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2006.03.27

梅⑦(毛沢東)

高島俊男の本を読む前に、

寺山修司の『英雄伝』(角川文庫)から、毛沢東を

みる。

『毛沢東は私にとってマルクス主義者というよりは、劇画の
 主人公であった。十七歳で弁髪を切って革命軍に入り、
 (すぐに一度除隊したが)二十七歳で中国共産党設立に
 参加、農民運動を指導し、その組織力で農村の各地に
 革命の根拠地を作ってまわったあたりは、白土三平の
 「忍者武芸帳」や「カムイ伝」の主人公の面影が重複する。
 農村における毛沢東の信頼は絶大であり、毛沢東もまた
 農民党の蜂起こそ革命の原動力になるのだ、と信じていた。
 しかし、そのことは都市労働者を革命の中核とみなすコミン
 テルンの指導方針とは、相容れるものではなかった。』

『毛沢東の青年時代は、まさに中国という「国家」の青年時代
 であり、三国志を思わせる英雄、豪傑の乱立の時代でもあ
 った。そしてそれは、歴史を虚構化して語ろうとすればするほ
 ど、いきいきとしてくる。』

『一言でいえば、毛沢東は「持久の人」である。彼のねばりは、
 革命にとって不可欠のものである。、、
 毛沢東は、すぐれた革命家であり、中国の指導者であり、歯
 がまっくろになるほどの煙草の好きな男、妻を三度変えた男、
 そして郷下人と呼ばれる田舎っぺであった。、、』

さて、以上の寺山修司の毛沢東について語った文章を読んで、

高島俊男の『中国の大盗賊・完全版』を読むことにする、、、、

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2006.03.26

梅⑥(毛沢東)

毛沢東が、陸游の『詠梅』をふまえて、

『陸游が梅を詠ぜしを読み、其の意(こころ)を反(さかしま)に
 してこれを用う』と注をつけ

次のように詠んだ。

  「朴算子、梅を詠ず   毛沢東」

 風雨 春の帰るを送り
 飛雪 春の到るを迎う
 巳(すで)に是れ懸崖百丈の冰(つらら)なるに
 猶 花の枝のうつくしきあり
 うつくしけれど 春を争わず
 只 春の来たるを報ずるのみ
 山花爛漫たる時を待ちて
 かの花 くさむらに在りて笑(ほほえ)まん

(早春の寒さのなかで、梅が美しく花開いている。
 しかし、その花には春を独占する気はない。
 ただ春の来るのを予告するだけだ。
 やがて全ての花が咲き満ちると、
 先駆者としての任務を終えた梅は、
 一人満ち足りた笑みをうかべるだろう。)

陸游の『詠梅』は、首都奪還の夢を奪われ、失意の中で

一輪の梅に満たされなかった志を託している。

毛沢東は戦いに勝利し中華人民共和国を樹立していた。

ここらへんは、陸游と根本的に異なる。

この詞が作られたのは1960年、中国共産党は孤立していた。

毛沢東は国際共産主義運動が分裂して退潮の兆しが

見えてきたことに苛立ちを感じていた。

憂国詩人陸游の詞にあやかり、人民を鼓舞しようとした。

其の意(こころ)を反(さかしま)にして、とあるように

内容は天下を取った毛沢東の自信に満ち溢れている。

梅は最期に笑うのである。

毛沢東という人はそのイメージとは異なり、

文雅な教養人であったらしい。

高島俊男著『中国の大盗賊・完全版』(講談社現代新書)

という、ものすごい題名の本を読むと、、、

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2006.03.25

梅⑤(陸游)

陸游48歳、失意の中、配属がえを命じられ南鄭から

成都にむかう。その時詠んだ歌、

  『剣門道中にて微雨に遇(あ)う』

 衣上の征塵 酒痕を雑(まじ)う
 遠遊 処(ところ)として消魂ならざるは無し
 此の身 合(まさ)に是れ詩人なるべきや未(いま)だしや
 細雨 驢(ろ)に騎(の)って 剣門に入る

(旅路のほこりにまみれた上衣には酒のしみがまじり、
 長い旅のあいだ、どこと言わず魂きえんばかりの思い出がのこる。
 さてもこの身はここで詩人になりきったといえるのか、、、
 小雨そぼふる中をろばにまたがり剣門の山をこえるこのとき。)

長安奪回の夢も失い、勇猛な同僚達も散じ、陸游はロバに揺られて

のろのろ前線を去るのである。48歳の陸游が人生をかけて最大の

冒険をやる機会は去った。李白も杜甫もロバに揺られて各地を

転々としながら詩をつくった。もう陸游に勇士として武勲を立てる事は

出来なくなった。これからはロバの背にまたがり詩をつくるだけの

生活しか無い。陸游は悲しいのだ。それ故にこそ一輪の梅に

その志を託したのだった。

毛沢東が、後に憂国詩人陸游にあやかり、梅を詠んだ詞を作った、、、

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2006.03.24

梅④(陸游)

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陸游は1125年に生まれた。

この年すでに北方の金の軍隊は宋の領土に

侵入しつつあり、翌年には都は陥落し、その次の年

陸游の家族は南方に避難した。

どうも宋という国は科挙の制度をとり、学問を奨励し

学術文化の面では多くの人材を輩出したが、

軍事、外交面では優柔不断な失政を繰り返した。

周辺異民族国家の力に押され、多額な貢物を贈ることで、

形式的に宋の面子(体面)を立て一時的な平安を得ていた。

しかし、そうした態度は周辺異民族国家に、宋恐るに足らずとの

認識を与え、ついに金の侵略により宋は南下し南宋となる。

陸游の生きた南宋の宰相は秦檜であった。彼は金に対して宥和政策

をとり、タカ派の岳飛を殺した。徹底抗戦を主張した岳飛が正しかった

のか、金の国力に対して南宋の力の及ばぬ事を判断して和議を

唱えた秦檜が正しかったのかは別として、後世、岳飛は尽忠報国の

義士として賛美され、秦檜は売国奴として今日までツバをはきかけられ

る像として残っている。

陸游は主戦論者だった。金に支配された北方地域で漢民族の住民は

ゲリラ活動を続けていた。南宋の大勢は和平論であったが、幾度か

漢民族のナショナリズムに燃える主戦論が正規軍の中で力を得、

金に対して軍事的勝利を収めたこともあった。陸游は武将王炎の幕僚

として前線に出て戦い、長安奪回作戦を計画していた。

しかし、南宋朝廷はまたしても和平論に傾き、王炎は左遷される。

1173年、陸游は失意のどん底にあって、前述の『詠梅』の詞を

つくる。憂国の志は中央政府の方針によって挫折した。

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2006.03.22

梅③「陸游」

陸游という人は宋の詩人である。

宋代の詩人は、名の知れた者で七千人、その

作品は十万首をこえる。この中で最も愛された者といえば

北宋の蘇軾(東坡)、南宋の陸游の二人ということになる。

(中国詩文選20「陸游」小川環樹 筑摩書房)

陸游が、一輪の梅に託した志とは、早春に散り去り泥にまみれて

も、その高い志は梅の香りのように残り、やがて咲く多くの花に

受け継がれるであろうということだった。陸游も蘇軾も自身の

信念を貫いて生きたが、その生涯は決して満ち足りたものでは

なかった。

陸游は1125年に生まれた。蘇軾(1036-1101)の死後24年後

に生を受けたことになる。

宋の時代は、経済、文化の面で大いに栄えた時代であったが、

冗官冗兵により内政面では財政危機に陥り、外交的には近隣異民族

の侵略の脅威にさらされた。王安石の改革により構造改革しようと

するが、反対派との政治抗争にあけくれ、その成果はあがらない。

蘇軾は保守派に属していたが、政治抗争に巻き込まれ左遷と復権を

繰り返す。晩年、復権して海南島の北岸から「中原」に戻る途中、

客死する。『青山一髪、是レ中原』(青い山が髪を一筋引いたように、、

、、、あれが中国だ)と、中原に帰ることを楽しみにしていたのに。

けれど蘇軾は左遷されても陽気に過ごした。豚の角煮(トンポウロウ)を

発明したり、レイシを日に三百粒食べ、海南島の現地人々と楽しんだ。

陸游もまた己れの志を貫き、めげなかった、、、

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2006.03.21

梅②「陸游」

中国人の好む花を三つあげるとすると、

梅、桃、牡丹である。そして最も好むのは、梅である。

梅を詠じた詞の一つに陸游の「詠梅」がある。

梅は早春の寒さの中に咲く。なごり雪や風雨に打たれ

ながらも、先駆者として香り豊かに花をつけ、

これから来る春を告げるという使命を果たす。

詠 梅

 駅外 断橋のほとり
 寂寞として開けど主なし
 すでに黄昏にして独り愁え
 更に風と雨にうたる

 きびしく春を争う意なく
 ひとえに群芳のねたみに任(ゆだ)ぬ
 零落して泥となり ひきつぶされて塵となれど
 只香りのみあり 故(もと)がごと

(宿場のはずれ 崩れた橋のたもとに 見る人も無く
 ひっそりと一輪の梅が咲いている
 すでに黄昏 花は一人愁いに沈んでいる
 はげしい雨と風に打たれて

 梅には 春を争う気はさらさらない
 もろもろの花が咲き乱れるのをよそに
 やがて梅の花は散り
 落ちた花びらは 泥にまみれて塵となるが
 香りだけは変わらず 匂い続けるだろう)

陸游は、梅の花に自身の志を託す。

早春の寒さのなか、風雨に耐えて、孤高に咲く梅の花の

香りに高い志を見る。(松本一男)

陸游という人は、、、、、

 
 

  

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2006.03.19

梅① 「花の覚え書き、73」

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梅は正直なものだ。

今年の寒さに開花は遅い。

それでも、咲いていた。

梅は中国から渡来した。奈良時代以前に、

遣隋使か遣唐使により持ち帰られたらしい。

『万葉集』には百十八首歌われていて、桜の五十首の二倍で

あるらしい。ハギに次いで多く歌われている。七世紀から八世紀

にかけて、日本に梅が急速に広がったらしい。

やがて、日本人の好みは桜へと向かうのだが、寒中に咲く梅に

その清楚な気品をめでる気持ちは今でも変わらない。

梅の本家、中国では、、、

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2006.03.14

ふきのとう,③(てんぷら、味噌)

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やっぱり、定番といえば、

ふきのとうの天ぷら、味噌あえ。

なんというか、あの苦味が冴えるのは天ぷら。

長時間、ふきのとうを楽しめるのは味噌あえ。

平野雅章さんによれば、

『春苦味、夏は酢の物、秋辛味、冬は油と合点して食え』と

いうらしい。春先は冬季に蓄えた脂肪や塩分を和らげる物を

食うべし。

ふきのとうは、季節の食べ物、、、、

熊も冬眠から覚めて、この苦味を食って、

春を知る。

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2006.03.13

ふきのとう、②(焼きふきのとう)

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焼きふきのとう。

水上勉の精進料理について書かれた本に

ふきのとうを七輪であぶって食うのは旨い、という

のを読んだことがある。

平野雅章の本でも、「固いつぼみを、姿のままか、二つ割りに

したものを、火にあぶり味噌を付けて食う」とある。

やってみました。まだ開いていないつぼみを選んで電気コンロで

じんわり焼き上げました。

これが、ふきのとう特有のにがみも意外にあっさり、えぐみも感じず、

辛子マヨネーズつけて食べたら、旨い。

さて、こうなったら、てんぷらも味噌あえも食わなければならない。

かくして、ふきのとうのフルコース、、、、

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2006.03.12

ふきのとう、①「花の覚え書72」

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今年の冬は寒かった。

それでも、春は来る。

ふきのとうを捜すのは簡単。

雪解けの後、なにやら薄汚れた土に

あざやかな緑が眼にしみる。

ふきのとうは、『延喜式』(927年)に、相模の国から

5,4キロ、宮中に献上されたとの記録があるらしい。

冬ごもりから目覚めた熊が真っ先に食べるのがフキノトウらしい。

古代の人たちにとっても、春を告げる貴重な緑の野菜であったと

いう事は、宮中に献上された記録からも想像できる。

セキ止め、タン切り、食欲増進の薬用としての意味もあったのかも

知れない。

さて、フキノトウを食べるのです、、、、

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2006.03.10

樋口一葉という人、20

いろんな人が一葉について語っていることを書いてきた。

一葉という人について、語られた文章で一番的確なのは

『樋口一葉 日記・書簡集』(筑摩文庫)の資料にある露伴の

談話だろう。

『応対が巧みであつた。進退動作節に合して決して人を反らさない。
 其迄の生涯が如何に辛労の生涯であつたかは是に拠つても察せ
 られる。』

『余が女史に面したのは至つて僅かの時間、、、、、、負けぬ気の、
 物に耐へる力のある、冷澹ならざるー然しながら人を腹の中で
 批評し得ぬ程馬鹿でない人である事は知られた。』

『、、女史の文は血や涙や汗の化けたのである。』

幸田露伴の娘、幸田文の書いた一葉の妹邦子に関する文章も、

邦子という人の姿を描いて秀逸だが、この本の参考資料にある、

『一葉の季感』という文も、一葉の作品を語るにふさわしい。

 「『事件人物はほとんどみな季節にくるまつてゐる』といふ強い
 季節感が残るのだつた。むしろ人物のかなしさより、季節のもと
 に息づいてゐることのかなしさの方が大きく残つてゐるのを感じ
 させられたのだつた。」

一葉の生きた時代、明治の若い文学者たちは言文一致の文体へ

の道を探り西洋の文学作品にその基礎を求め、近代文学への道を

歩もうとしていた。

一葉は、西鶴、近松を愛読した。そして彼女の周囲の社会の底辺で、

したたかに生きる人たちを描くことに自身の文学のあり方を見つけ

た。生活の為に小説を書く事をやめ、書きたい事を書き出して、

その作品はその文体の古さにも関わらず、その内容は近代文学に

ふさわしいものとなった。

そしてまた、幸田文が書いているが、

『血で季を捉へる、と考へれば私は、刃物をあてられるやうな気がして、
 ぶるつとするのである。』

といった感覚は、現代の日本に暮らす私にとって、改めて一葉の作品を

読み返すべき一つのヒントにもなるのだった。

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2006.03.08

樋口一葉という人、19

一葉という人について、いろんな人が書いている。

それらを拾い読みしていくと、妹の邦子という人の存在が

気になってくる。明治29年の夏ごろから一葉は床につく。

11月23日の早朝、枕の向きをかえてくれ、と妹くにに頼み、

そうしてやるとそれきり一葉は事切れた。

鴎外は正装して騎乗で葬儀に参列すると伝えたが、妹邦子は

お返しができないからと丁寧に断り、葬儀は内輪のきわめて

寂しいものとなった。通夜の晩はひどく寒く、数少ない参列者は

夜警の太鼓の音を物悲しく聞いた。斎藤緑雨は、

 『霰降る田町に太鼓聞く夜かな』という句をつくった。

日記その他は全て焼き捨てて、という一葉の遺言に反して、

妹邦子は全てを大事に保管した。

幸田露伴は「むしろ妹のほうが顔立ちは良かった」と述べ、

幸田文も、邦子について、西洋人のように美しい人で、利口な人、

立ち居振舞いに一寸のすきもなく、当時の文学作品を弁舌さわやか

に批評し、畠仕事に精出す文の手を握り締め、涙を流しながら

激励してくれるのだけど、なんだか、そのあまりに完璧な気配りに

違和感を感じる。文の義母もまた「外交官」というあだ名を、

邦子にささげる。和田芳恵は、邦子が一葉の死後、郷里から出てくる

人々に対して過分な接待をし、また二千円の金を寄付して郷里に

一葉碑を建て、その利息を小学校の児童の文房具にとあてている。

『邦子さんという人は頭が良すぎて気持ちが悪いが、頭はたしかにいい
 人だったのですね。世渡り的な、、、、』

一葉伝説というのは、妹、邦子の存在が大きく作用しているんじゃないか。

その気配りも、姉一葉を大事に思う余りからきている様にも思える。

そして、それは一葉の喜びも悲しみも、最も身近に感じ取った邦子の

精一杯の、ある意味一葉の魂が乗り移った、行為とも思われる。

様々の人たちが一葉像について語ってきた事柄を読むと、

森まゆみが言うように

『士族の娘、郷党、読書好き、向上心、女家族、近眼、不器用、英雄願望、
 貧困と夭折、ナショナリズム、文語体といったさまざまな一葉を理解する
 キーワードがあろう。一葉は、明治という時代への同調と違和感を持ち、
 純情と辛辣、つつましさとしたたかさ、親しみにくさと愛敬、相反する要素
 の多彩なせめぎわいの中で生きた人のように思える』

そして、その複雑さは、わずか24歳でこの世を去った一葉の年齢を思えば

、比較するだにおこごましいが自分が24歳の頃を思えば、余りに

悲しい複雑さとも思える、、、、、

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2006.03.06

樋口一葉という人、18

瀬戸内寂聴は、一葉は半井桃水、久佐賀義孝と

深い関係にあったとみる。それでなけりゃ月々お金なんぞ

出すもんですか、という。まぁーよく分からぬ。

男の立場からすると、釣った魚に餌なんぞやる訳が無いとも

思えるのだが、、、、、、。

和田芳恵が、一葉の生活や作品を実証的に分析批評して、

その偶像視されていた虚像を打ち壊そうとした時、当時の文壇の

大御所久保田万太郎は、激怒したという。一葉貧困説は認めるが

一葉と桃水が関係があったなどという説は明治文壇の天才女流作家

である一葉に対する侮辱であると考えたのである。

和田芳恵は、『明治・大正文学史』(岩波現代文庫)で、

「それで、いまの段階になると、私はそういうことはどうでもよかった。
、、、 いまの考え方からいうと、そんなことはつまらないことでであった
と思うのです。」

と述べる。和田芳恵は、一葉の虚像を打ち壊そうとして問題提起をした。

しかし、よく考えてみると、一葉が桃水と肉体関係があったかどうか?

なんてどうでもいいことなんだ。瀬戸内寂聴が、男と女ってそんなもの

なのよ、と言っても、ようするに、どうでもいいことなんだ。

樋口一葉は、当初文学は金になると思い書き始めた。しかし金には

ならなかった。「やけのやんぱちの一葉」は自分の書くべきことを

「奇跡の十四ヶ月」で書きあげ、そして、あっという間(奔馬性結核)

にその生涯を閉じる。

妹邦子は、一葉の遺言に反して、日記、草稿その他の全てを

保管した。あまりにも短い一葉の生涯に様々な伝説が生まれるのは

邦子が大切に守った日記、草稿に因る。

この、妹邦子という人、、、、

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2006.03.05

樋口一葉という人、17

「ああ、いやだ大人になるのはいやな事」と思う

実登利には、大人になれば廓に売られる自身の運命が

分かっていた。樋口一葉もまた、『やけのやん八』の境遇だっった。

一家の生活の支えにと作家を志すが、挫折する。

従兄(樋口幸作)の死が(和田芳恵氏によれば血統に対する恐れ)

一葉にある種の宿命論を与えたとの説もある。

なによりも一葉を追い立てたのは生活の逼迫だった。実業への道

を選び、下谷の大音寺前で小さな商売を始めたがうまくいかず、

本郷丸山福山町に移り住む。

皮肉にもこれらの生活で、一葉は文学的に開花する。

士族の娘(それは金で買った身分ではあるが)というプライドだけで

生きてきた一葉は、周囲のなりふり構わず必死に生きる人々との

出会いを契機に一切の桎梏から解き放たれ自由になった。

そしてなりふり構わず金を借りまくり、自分の書くべき事柄を書こうと

決意する。美登利は「姉のあとつぎの乞食め」」と罵倒され、正太にも

、「だけれどもあの子もおいらんに成るのではあわいそうだ」と同情

される。しかし美登利はその運命に逆らうことは出来ない。

一葉の生きた時代、「女性には外勤の仕事は無く、外に出るとしたら

それは女中か芸者か、娼妓に身を落とすことであった」(森まゆみ)。

平塚らいてうのいう様に、実登利も一葉も、『彼女の生涯は女の理想

(彼女自身の認めた)の為め、親兄弟の為めに自己を殺したもの。其

価値は消極的の努力そのもので』あったかもしれないが、

「やけのやんパチ」の一葉は、その逆境のなかで、言い換えれば、

その逆境故に確かな人生認識を得、「奇跡の十四ヶ月」に次々

作品を書きあげる。


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2006.03.02

樋口一葉という人、16

佐多稲子は、「たけくらべ」の美登利が、「かの日を

始めにして」急に大人びて、「生まれかはりし様」になった

事について一般的な見方(初潮説)をとらず、「かの日」に

身を売ったのだと述べた。『初店説』である。

『初店』というのは広辞苑によると(『初見世』娼妓が始めて店

に出ること。つきだし)とある。ようするに「水揚」である。

これに対して瀬戸内寂聴は「たけくらべ」を読み返し、「初潮説」を

支持する。

この両者の主張をもとに「たけくらべ」を読み返すが、男である私に

はよく分からぬ。佐多説をとれば、「たけくらべ」の美登利の哀れさ

はより深まる。いずれは姉と同様に娼妓としてしか生きられぬ境遇

の美登利は勝気で利発で同時に少女らしい存在として描かれる。

それが、「あの日」を境に、

『憂く耻かしく、つつましき事身にあれば人の褒めるは嘲りと聞なされて
 、島田の髷のなつかしさに振りかへり見る人たちをば我を蔑む眼つき
 と察られて、正太さん私は自宅へ帰るよと言ふに、何故今日は遊ばな
 いのだらう、お前何か小言を言はれたのか、大巻さんと喧嘩でもした
 のでは無いか、と子供らしい事を問はれて答えは何と顔の赤らむばか
 り、、、、』

『何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひて手にして飯事ばかり
 してゐたらばさぞかし嬉しき事ならんを、ゑゑ厭や厭や、大人に成る
 は厭な事、何故このやうに年をば取る。、、』

『美登利はかの日を始めにして生まれかはりし様の身の振舞、用ある
 折は廓の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、、、、、
 いつも耻かし気に顔のみ赤めて筆やの店に手桶の活発さは再び見る
 に難く成れる、、、』

人が急に大人しくなった事を怪しがり病気のせいかと問うのに、母親は

一人微笑みて、これは中休み、そのうちおきゃんの本性は現れます、と

言う。

佐多稲子は、初潮くらいのことでこんなにも変わるものか?「たけくらべ」

を読んだ当初から、「身を売った」ことによると思っていたと述べるのだ。

プロレタリア文学出身の佐多稲子説といえば言えるのだけれど。

瀬戸内は、当時の色町の事情に詳しい人の話などを参考に、

「初店説」を否定する。

文学作品は読む側がどう感じ取ろうと自由であるはずで、さまざまな

見方ができるのは、ある意味その作品の奥の深さを示すということで、

こうした見方もあるという事を念頭において「たけくらべ」を読み返すと

また新たな発見があるというものだ。

紀州生まれで、ちょっと訛りのあるのも可愛く、取り立てて美人という

のでもないが、物言う声は清(すず)しげで、人見る目は愛敬にあふれ、

身のこなしはきびきびとして、気性はさっぱりあねご肌。妙に大人びた

ように見えてもあどけなく無邪気な一面も持つ実登利。

しかし、町内の悪ガキには『何を女郎め頬桁たたく、姉の跡つぎの乞食

め、』と罵倒され泥草履を投げつけられるという屈辱にもあう。

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