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2006.02.28

樋口一葉という人、15

戸主として、一家の生活の糧にと、小さな荒物屋を

始めた一葉の事を、平塚らいてうは次のように書いている。

『親兄弟の為めに余儀なく筆を執つた一葉はなほも生活難に
 堪へないで親兄弟の為めに小商売を始めた。それは吉原
 近きとある乞食町だった。
  この間の生活は彼女が人生、社会に対する眼界を広め、経験
 を増さしめあわせて作家としての観方、態度を新にし、作品の
 上に一大進境を示させた。
  彼女が一代の傑作「にごり江」「たけくらべ」「わかれ道」は即ち
 この間の生活の産物である。
  かくて一葉の名声、作家としての価値は動かぬものとなつた。
 けれど一葉にとつてはこれは全く偶然の結果に過ぎない。
  実に彼女の天才を発揮させたものは、、、、生活の圧迫だった。
 只々親兄弟を大事と思ふ一念だった。その深いいつくしみの情
 だった。よく己を捨てるものはまたよく己を得るのだ。
 、、、、、、
 彼女の生涯は否定の連続である。矢張り彼女は「過去の日本の
 女」であった。』


なんだかね、一葉を誉めているのか、けなしているのか?

作品は評価しつつも、生活のため小説を書いたという動機に不純な

ものがある点が気に入らないのか、自分を犠牲に家族の為に生きた

事が、「自立する女」である平塚の気に入らなかったのか、単に自分

の主義主張に話を持って行きたかっただけみたいな気がするんだけど。

森田草平と心中未遂事件を起こし、漱石に『無意識の偽善者』と評され

た平塚らいてうのこの文章は、樋口一葉の日記の公開と共に始まる

一葉の偶像化への反発が感じられる。

幸田露伴は、一葉が生活の為に苦心惨憺する中で、いろいろの人情に

接し、世態にも通じるようになった、『其悲しむべき閲歴其物が大に女史

の才を養ふに補ひがあつたのである』と言っている。

しかし、また「吉原近くの乞食町」での生活が様々な噂となったらしい。

馬場胡蝶は、『一葉君の文名が高くなった二十八年の暮頃から、一葉

君の閲歴に関するさまざまな浮説が世に行はれた』と書いている。

曰く、一葉は吉原でおでん屋をやり、母親はやり手婆だった云々。

これらの噂を馬場胡蝶は否定して、世間の噂というものはこうしたもの

だ、と書いている。

どうやら、一葉という人はそのデビュー直後からゴシップの的となって

いたようだ。

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2006.02.26

樋口一葉という人、14

「やけのやん八の一葉」は、

この座談会では、次のように語られる。

『和田 穴沢清次郎さんが十七歳のころに、西村釧之助のところ
     に姉妹で借金にきているのを、、、聞いていた、、
     たいてい五円貸してくれとか、借金の口火をきるのは妹の
     邦子だったそうです。そのとき立会人みたいな意味で姉さ
     んがついてきて、ほとんど単独で金を借りたことはないそう
     です。、、、、
     それなのに、一葉はくる人、くる人に非常に派手にふるまった
     という。それほど困っているのに、すしを出すとか、一生懸命
     ご馳走しているのだそうですよ。
     だから、そういう世渡りのしかたで、『文学界』の人には、あまり
     ないところはみせないというようなところがあったのでしょうね。
     困っていても、困ったところをみられるのはいやだとか。』

新潮文庫の一葉年譜を見ると、

『明治26年、21歳  三月、「雪の日」を『文学界』に発表。』とある。

幸田露伴が書いているように、一葉が文学的に開花するのは、

『文学界』と接触してからである。中島歌子の歌塾で伝統的な教養

を身に付け、半井桃水、村上浪六らに教えを乞うが、

それらは古風な写実主義でしかなかった。

『文学界』の創刊とともに一葉は当時としては最も新しい、西洋的な

浪漫主義と出会うこととなる。そしてまた『文学界』の優秀な新人達も

新しい同人を待ち望んでいた。

『文学界』の初期は北村透谷、次が樋口一葉、最期は島崎藤村の詩

が中心となる。新しい文学運動の旗手として期待された北村透谷は

明治27年5月、『明るい月の晩、自宅の庭の木』で首つり自殺する。

『文学界』に、作品を発表するが、原稿料は薄謝に近いもので、

一葉は物質的にも精神的にも行き詰まり明治26年7月、吉原遊郭

近くの、俗称大音寺前という土地で小さな荒物屋を開く。華奢な一葉

は仕入れの荷をしょって東京を歩き、妹邦子は店番をし生計を立てる。

しかし、最初はまずまずであったが結局はうまくいかない。

明治27年、3月。馬場胡蝶が原稿の催促に訪れ、生涯の知己となる。

同年2月久佐賀を訪問、女相場師になりたいと相談。資金援助を打診。

同年5月、本郷丸山福町町に転居する。

樋口一葉は、生活の為の原稿は書かぬと、実業を始めるが、結局

うまくいかない。とかくの噂のある相場師に近づいたりするが、

同時に文筆活動を再開しようと決意する。

このころ、半井桃水へ出そうとして、結局出されなかった手紙の下書き

には、桃水への思いが切々と書かれてある。

和田氏によると、もう一つ一葉の心を曇らせる問題があったという。

「やけのやんぱち」という表現が適切かどうかは別として、

このころの一葉が多くの問題をかかえていたことは事実だろう。


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2006.02.24

樋口一葉という人、13

『座談会 明治・大正文学史』(岩波現代文庫)から、

「柳田 文学者じゃないが、例の悪評のあった久佐賀義孝、
     あそこに行ったのは、ただ金を借りたいために行った
     だけの話ですか。それには、誰かが体をはってどうやら
     と書いていたが。

 和田 あのへんのところはちょっと複雑でもあるし、あるいは日記
     でそう作り上げたかという説もあると思うのです。
     ようするに日記を創作だとみていくと、これは作りあげたもの
     ではないかという、一つの考え方もあるのですけれども、
     久佐賀に会いに行ったというときには、ともかくちょっとそう
     言えば悪いけれども、うまくいったらば、それは関係したかった
     とは思いませんけどもね、まあ少し色じかけみたことやっても
     金を引き出そうとして行ったとは見ていいでしょうね。

 勝本 言い出したほうは久佐賀のほうだが、言い出されてみると
     反発していますね。」

久佐賀という男には、金をえさに女をもてあそぶ、という噂があった。

一葉も当然そうした社会的悪名は承知していたはずである。

けれど一葉は久佐賀を訪問する。そこいらへんのところが、

もう一つ分からない。

泉鏡花の描いた一葉は、下町のあねご風、ちょっと一杯ひっかけて

美貌をかたに、とかくの噂の相場師から金を引き出してやろうと

久佐賀を訊ねたとしても不思議ではない。

「一葉不美人説」をとる勝本氏は、地味な野暮ったい一葉には逆に

お妾さんになるというような危険が無かった。だから始めからその

危険は感じていなかったのであると言う。

和田芳恵氏は、

「和田 ですけれども、会いにいくときに変名を使っているのですね。
     秋月という。何故変名を使ったかというところにたちいたって
     いくと、やはりなにかあるのかもしれない。女の気持ちだか
     ら、なにかあってほしいという願望みたいなものは内部にも
     あるし、あれば困るという気持ちもあって、秋月という名前で
     行ったのではありませんか。
       (中略)
     一葉の気持ちにはなにか自棄のやん八といっていい状態が
     あるのです。そういうような気持ちの延長のうえに久佐賀問題
     もあった。、、、、、」

「自棄(やけ)のやん八」の一葉、、、、、

 

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2006.02.23

樋口一葉という人、12

樋口一葉という人について語られる時、

必ず出てくるのが、久佐賀義孝との関係である。

別冊新評昭和47年8月号での対談で、平野謙は

『ただ樋口一葉は女性として可憐な顔つきはしているけれど
も、なかなかのしたたか者で高利貸しなんかには貞操を代償
に金を借りようとした、そういうしたたか者という説と、封建的な
桎梏から脱出する女性像とか、いろいろ評価があるわけで、、』

新潮文庫「にごりえ・たけくらべ」の年譜には、

『明治27年 22歳  二月、易者で観相家の久佐賀義孝を訪ね、
 女相場師になりたいと相談を持ちかけ、資金の借り入れを申し
 込み、これを機会に交際するようになった。
 『花ごもり』を「文学界」(二月、四月)に発表。三月、「文学界」の
 馬場胡蝶が原稿の催促で始めて訪問、生涯の知己となった。
 四月、生活のための原稿は書かぬと決めて商人になったなつは、
 また文筆活動へ戻ろうとして桃水を訪ね、助力を乞うた。一方、
 萩の舎へ助教として復帰することになった。
 、、、
 八月頃、はじめて島崎藤村が訊ねた、九月、村上浪六へ借金を
 申し込んだが、実現されなかった。
 十二月、『大つごもり』を、「文学界」に発表。
 久佐賀に千円の借金を申し入れ、月十五円で妾になれと、具体的
 にいわれ、その俗物ぶりにはらをたてて、ことわり状を出した。』

さて、、、、、、。どうなんだろう?
 

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2006.02.22

樋口一葉という人、11

岩波現代文庫「明治・大正文学史」(2)で、

勝本清一郎は次のように述べている。

『藤村は一葉に対して割に悪い印象をもっていたことが
 確かですね。僕には悪い印象を何度も話したのです。
 ところが若き時代の藤村の手紙を見たときに、そうでも
 ない辞句にぶつかりました。明治27年8月14付の書簡
 に、その月はじめの初対面の印象を「実にめづらしきすねもの」
 というふうに書いているし、その翌年3月4日付の書簡では
 「実におそるべき秀才」と言っています。、、、、若いときには、
 ある一面では一葉にうたれたことが事実で、ただ一葉の印象
 の中に、藤村としてはかなり好ましからざる一面のあったのも
 事実なんでしょう。』

ちなみに、泉鏡花も島崎藤村も一葉の日記には、何故か登場

しない。日記の欠落部分の時に藤村が訪問していたからだ、とか

陰険な性格の泉鏡花を嫌っていたからではないか、とか色々説が

あるらしい。ただこうしたことを読むと、一葉という人の一面に

文学者としての屈折した激しい性格があったことが思い浮かぶ。

一葉の日記を読むと、「たけくらべ」が森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨

に激賞され、自分の作品の確かな手ごたえに恍惚としているとも

思える部分がある。明治文壇に華やかに登場した新人作家の位置に

一葉はいた。泉鏡花、島崎藤村は、激しい文学者の魂を持って

ライバル一葉に、「一癖ある態度」で接した。この二人を一葉は認めよう

とはしなかった。日記のなかで、一葉は自身が明治文壇の

マドンナであることを自分自身で確認しようとする。

自分を訪問する人々は、自分の崇拝者ばかりであった。

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2006.02.21

樋口一葉という人、10

美人で才能のある一葉の家に若い文学青年が

集まるという設定は、一葉を主人公とした後世の舞台や

映画の脚本家が好んで描いたが、実際は別に一葉宅だけ

でなく、他の同人の家にも青年達は同様に行き来していた

らしい。

但し、一葉の日記を読むと、さも自分に恋焦がれて来訪して

いるように描かれているように思える部分もあるようだ。

また、一葉は日記の中でかなり辛辣な人物評を書いている。

戸川秋骨は「あな、うたての哲学者よな」と評されている。

秋骨は日記が公開され、一葉の自分への思いを知って愕然とする。

一葉という人は世間の荒波に揉まれ、大人の目で自分の

周囲の男達を、冷静に評価していた。戸川秋骨という人は

実際このような人であったと勝本氏は述べている。その人物評

は的確だった。馬場胡蝶という人に対しては一葉は絶対の信頼

を寄せている。

一葉の死後、作品の評価も上がり、美人で薄幸の才女と

もてはやされるに伴い、生前の一葉を知る者たちから、逆に

反感が生まれる。泉鏡花は、「薄紅梅」で、一葉を

『くたびれたから湯呑みで一杯酒をひっかけたところ』と、下町の

あねご肌の女として描いている。
 
斎藤緑雨はこれに対して、わざわざ「一杯の屠蘇にも酔うような人

であった」と書きいれをして、一葉大酒飲み説に異論を

はさんでいる。このあたりは「文壇の騎士」を任じて一葉の庇護者で

あろうとした緑雨の面目躍如たるところではある。

平塚らいてうは、一葉は生まれながらにして、修養のできていた、

型にはまった完成された『過去の日本の女』であったと述べる。

ようするに泉鏡花は小説として一葉を描いた。そこにあねご肌の一葉

が登場するのは創作上の意図による。平塚らいてうもまた自分の

主張に基づき、親兄弟の為自己を殺した否定の生涯であったと一葉の

生き方を批判する。

島崎藤村の一葉に対する印象も、好ましからざるものがあったらしい。

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2006.02.18

樋口一葉という人、9

三宅花圃の「女文豪が活躍の面影」で、一葉の

玄関口は、書生達の下駄で一杯だった、入れ替わり

立ち替わり文学青年が入り込んできた、とある。

先に引用した追悼文にも、「女史人と語ることを好む」と

ある。『文学界』の若い新人達が一葉宅を訪れた。

上田敏、島崎藤村、泉鏡花、平田禿木、戸川秋骨、馬場胡蝶、

、、

そこに、一つの伝説が生まれる。美人で天才的な才女の一葉のもと

に、多くの文学青年が集まる。それは文学を語るというより、

より濃厚な感情があったのではないか、一葉マドンナ伝説である。

一葉と妹邦子の二人の客あしらいの良さ、というのは幸田露伴も

書いている。文学青年達にとって、吉原近くの乞食町(平塚らいてう

の書くところによれば)で、才気あふれる姉妹が応対してくれる家は、

絶好の文学サロンであったのかも知れない。

そして一葉はあちこちで金を借りまくりながら、「文学界」の同人

たちが訪れると、派手に振舞っていたという。「文学界」の同人たち

には、商売の問題、金銭の問題は一切語っていない。

純粋の文学者として接している。

一葉の意地だったのだろうか、、、、、

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2006.02.17

樋口一葉という人、8

『斎藤氏は、頬が削ぎ取つたやうで、着物の上から、
 背の痩が見え、髪をパラリとたらし、色沢も悪く、
 「絵に描いた、貧乏神のやうだ」と、母が言ふてゐ
 ました、、、。中略。人の顔もまともに見ないで、
 静かに話され、折々、薄笑ひとともに、警句をもら
 されました。』

田辺(伊東)夏子は斎藤緑雨の思い出を上記のように記し

ている。そして緑雨が一葉の生涯を書くという構想をもっていて、

もしそれが上梓されていたら、『死後、無根の事や、間違った性格

を、座談会やなにかで、伝えらるる機会を人に与へませんでしたで

せうに、をしい事でした。』と述べている。

一葉の生前、最も一葉を気遣った二人の友人の話は慈愛に満ちて

いる。

「頬がそげて」いた緑雨は、結核を病んでいた。一葉の死の八年後

斎藤緑雨は逝去する。その死の床で気懸かりだったのは、樋口邦子

から預かってあった一葉の日記であった。この日記に描かれてある

緑雨の記載は好ましいことばかりでは無かった。彼だけで無く

幾人かの人に対する記述、またその他にも早急に出版する事

に躊躇する内容があった。しかし自身の死が近いと感じた緑雨は、

馬場胡蝶(一葉が最も信頼していた)に、日記を託した。そして自分の

死亡広告の文案を伝えた。気がかりなことを友人の胡蝶に頼んで

「もうこれで、この世に用は無いから、棺を買ってきて、早くその中に
 入れてくれ」と、

家人に言いはり困らせた。その翌日、緑雨は静かに息を引き取った。

享年38歳だった。皮肉屋で、人の顔もまともに見ないで静かに話し

時折薄笑いを浮かべて警句を言う緑雨と、終始うつむき加減の一葉

と、どこかしら共通するものがこの二人には有ったのかも知れない。

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2006.02.16

樋口一葉という人、7

斎藤緑雨という人は毒舌家で、

「才を娶らんよりは、財を娶れよ。女の才は用なきもの
 也。なまなかなるは不具に近かるべし」

などと書いていたが、一葉には惚れ込んでしまった。

明治29年1月8日に一葉のもとに届いた緑雨の手紙、

(秘密厳守の約束と筆(手紙)か口頭(訪問)かを問い合わせる

初書簡)に、一葉は見事な筆跡で秘密の厳守と手紙による

交際に応じた。

この一葉の手紙、そして緑雨の長文の手紙も、

「樋口一葉 日記・書簡集」(筑摩文庫)に載っている。斎藤緑雨は

この後、「文壇の騎士」をもって任じ、度々、一葉を訪問することとなる。

この年の4月、「三人冗句」で森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨が

一葉の作品を激賞する。斎藤緑雨は8月、一葉の病状の悪化を知り

森鴎外に頼み、有名な医師の診察を受けさせている。

さらに一葉の葬儀にあたっては、その費用、借金の支払いなど

一切、緑雨が工面した。けれど、一葉の書く日記のなかの緑雨は

きわめて率直に書かれている。

緑雨は「正直正太夫」なる筆名ももっていた。

『正太夫としは二十九、痩せ姿の面やうすすご味を帯びて唯口もと
 にいひ難き愛嬌あり。、、、声びくなれどすみとほれるやうの細き
 すずしきにて、事理明白にものがたる、、」

この日、四時間にわたり緑雨は人力車を待たせて、一葉と話込んで

いる。四歳年上の緑雨に対する一葉の人物評はきわめて冷静だが

『逢へるはただの二度なれど、親しみは千年の馴染にも似たり、、』

と、緑雨の文学談に耳をかたむける。

この斎藤緑雨について、田辺(伊東)夏子の書いた文が、

参考資料として「樋口一葉 日記・書簡集」(筑摩文庫)にある、、

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2006.02.14

樋口一葉という人、6

文芸倶楽部・明治29年12月号(雑報)掲載

別冊新評(昭和47年8月号)より

『 樋口一葉女史を悼む 一たび浮世の『濁り江』に、
 其才筆を染め、人生無限の恨を寄せてより、爾来
 明治才媛の名日々に高く、『十三夜』に、不遇の恋
 を写し、、『たけくらべ』に、少女の果敢なき恋を描き
 、其想は、高く人意の表に出で、其文は、優に明治
 詩界の重きを為し、きんこく者流の文豪として許され
 たる一葉女史樋口夏子の君は、尚二十五歳の齢を
 以て逝きぬ、哀しい哉。
 中略
 女史人と語ることを好む、今年の夏の暮八月頃より
 はからずも肺炎を患へて、爾来病勢愈々篤く、、、、
 斯く北堂に孝心深かりし人とて、其病に悩めるうちも
 、絶えず面に微笑を帯て、苦悶の状を示さず、十一月
 二十三日午前十一時永く此世を辞する四五時前も、
 微声を洩して笑いつつ逝けりと、、、、、
 されば女史が、其心華を咲かしめし著作を見れば、
 総て社会逆遇の人に向かって同情を表するが為めの
 ものにして、読者一点の霊心、知らず知らず何者かに
 感動するある所以は、唯之れを以てのみ。、、、』

さて、この雑誌では『明治文壇のそうそうたる人物との

ロマン』と題して、一葉を取り巻く作家たち、半井桃水、斎藤緑雨、

川上眉山らの名前をあげている。中でも斎藤緑雨は一葉に

切々とした手紙を書いている。

この手紙は『樋口一葉 日記・書簡集』の資料にある。


 
 

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2006.02.13

樋口一葉という人、5

『別冊新評・作家の死』日本文壇ドキュメント裏面史、

という、すごい題名の雑誌(昭和47年)を持ってるんだけど

その中に、平野謙、奥野健男、厳谷大四の対談というのが

ある。

『厳谷・次には樋口一葉だと思うんですが、彼女は半井桃水と
     はできてたんですか。

 平野・体の関係はなかったと思うんですが、それもよく分から
     なんだけどね、ただ半井桃水は大変な美男子で、やはり
     樋口一葉のほうが惚れたんだろうな。

 奥野・一葉は美女なんですかね。鏑木、栖鳳では美女なんだけれ
     ども。

 平野・写真が一つあるけれども、ちゃんとしたいい顔をしていますね。
     けれど昔の写真はものすごく修正しますからね。
     ことに女の写真は実物とは違っちゃうらしい。』

いやはや、結局、一葉は美女だったのかどうかに話が行くのでした。

この対談は、斎藤緑雨、川上眉山、平田禿木、馬場孤蝶、横山源之助

ら、一葉に関わる男たちに話がおよぶ。

そして、

『奥野・ただ年譜なんかみると短いのに、樋口一葉伝が出るほど、いろ
    んなことがあるのかなという疑問があるんですよ。だけど一葉とい
    うのは、なんかうら若きイメージでロマンティクの典型みたいな感じ
    がしてね。
 
 平野・なんとなく透谷と一葉は裏おもてになってね、佳人薄命という、、

 奥野・だけどいまの若い人には、あのままでは読めないでしょうね。 』

この雑誌には、明治29年12月号「文芸倶楽部」掲載の追悼文が

のっている、、、、

  

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2006.02.12

樋口一葉という人、4

『「文学界」の同人が語る、一葉像は世間で言っているような

 ものとはちがって、非常に野暮ったい山の手の士族の

 うらぶれた娘さんなんですね。駄菓子屋の裏座敷で

 古だんすや破れたつづれを背にして、猫背で赤いちぢれっ毛

 で、近眼で、そういう人が顔も上げないでボソボソとものを

 言っていたという、そういう娘さんなんです。』

これは、『明治大正文学史』、2(岩波現代文庫)で勝本清一郎と

いう人が語っている。

一葉という人については浪漫主義的な幻影がつきまとっていた。

実際、五千円札の肖像や、鏑木清方の絵などを見ると、

家の没落で貧困にあえぎながらも、背筋をのばし文学への志を

貫き、奇跡の十四ヶ月という短い期間に次々作品を書き、

若くして死んだ薄幸の美女というイメージを持つ、いや、持ちたい。

前述した勝本氏と対談している、和田芳恵氏は、こう言っている。

『日本の文豪などというと、刻苦精励とか、、、その娘さんの場合
 などは、やはり非常に人格高潔であって、そういう人が立派な
 仕事をするという、そういう前提でものを見ている。、、それじゃ
 ですよ、そういうような精神主義的な方法をとっていけば、
 はたして優れた小説が書けるようになるのか?、、、巷間では
 一葉は女神のようにまつられていたのです。しかし、当時、
 林芙美子さんとか、真杉静枝さんなどは、一葉をくわせものと
 考えていたようでした。』

一葉は、くわせもの、、、、、?


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2006.02.10

樋口一葉という人、3

三宅花圃という人は、元老院議員田辺太一の

娘で、三宅雪嶺の妻となる。

十四歳で、一葉は中島歌子の主宰する「萩の舎」に入るが

塾には、上流の子女が多くいた。その中でも田辺花圃は文才

を認められ小説を書き多額の稿料をもらった。これに驚いた一葉は

「私にも出来るかしら」と思った。家の方針で上級の学校には進め

なかったが、読書好きで勝気な一葉は、上流の子女には負けない

という自負もあったのだろう。「文学界」は女流作家として、

田辺花圃、若松賎子(「小公女」の訳で有名)の二人をかかえていた

が、一葉の「たけくらべ」が明治28年一月より連載されるにおよんで

一葉の文名は上がることとなる。

「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫)に三宅花圃が昭和6年に

書いた一葉の思い出話の文章がある。

 「春の花壇に咲き揃った百花の様にあでやかに居並ぶ令嬢」が

萩の舎で五目すしをご馳走になった。その寿司を運んでいた、

『ついぞ見かけた事のないほっそりとした、小奇麗な十五歳くらいの

髪の毛の薄い娘』が樋口一葉だった。一葉は小生意気にも漢学の

知識をひけらかした。「なっちゃん」と皆に呼ばれたその娘は

『口数こそ少ない方であったが、幼い折から随分苦労をしてきて

いるので、非常なお世辞者で』、『非常な近眼』で、その態度は

『非常に素直でなくて、妙にねちねちとしていて』、前口上が長く

話の要点になかなかいたらない人だったと書いている。

この三宅花圃という人は「女文豪が活躍の面影」などという一文

も書いているらしいが、一葉の死後、その評価が上がる事への

嫉妬心もあったのか辛辣な書き方をしているみたいだ。

一葉の親友で死の直前まで度々見舞っていた伊東夏子は、

こうした三宅花圃の書き方に義憤を感じたのか、「一葉の憶ひ出」

を書き、生意気でもなく、強い近眼のためか下を向いてばかりで、

大声で笑ったのもみたこともなく、物がたくつつしみ深い人で

あったと反論している。

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2006.02.09

樋口一葉という人、2

これは、以前に引用したことがあるのだけど、

「父、こんなこと」幸田 文(新潮文庫)に、一葉の妹

樋口邦子についての文章がある。

『私は畠をやらされたおかげで一人知己を得た。一葉女史の
 妹、故樋口邦子さんである。このかたは一葉以来の交際で
 あるから古い人で、母が死んだのも継母が来たのも知って
 いる。色白にすらりとして、高い鼻と鮮やかに赤い口をもった
 西洋人のような美しい人、、、、、』

着こなしはすっきりとして、『地味は粋のつきあたりといった風情』、

盆暮れには礼儀正しい挨拶と多分な贈り物を持って来訪する。

非常に能弁な人で、『浮世の砥石にこすられて、才錐の如く鋭い

ところがあって、来る毎の相変らず流れる様な対応術は、ははの

水準をはるかに抜いてい、ははは外交官という名をたてまつった。』

邦子は畠仕事をしている文に近寄り、如才ない常識の挨拶を華やか

な声で話すうち、泥にまみれた手を握り、「お怪我などなさいません

ように、御十分お大事に遊ばしませ。」と目に涙さえ浮かべて

言うのだった。

幸田露伴の、一葉についての談話にも次の様にある。

『○其れから又応対が巧みであつた、進退動作節に合して決して人
  を反らさない。是迄の生涯が如何に辛労の生涯であつたかは是
  に拠つても察せられる。、、、、』(ちくま文庫、樋口一葉日記書簡集)

幸田露伴の娘に対する躾の凄まじさは、幸田文の文章を読めば分かる。

その露伴が、一葉の対応を誉め、その妹の邦子もまた、「利口な女さなあ」

と語っている。

辛苦の生活のなかで、それでも持ち前の勝気な性格で人に馬鹿にされて

はならぬとの思いが、一葉、邦子の姉妹の立居振舞に現れていたのだろう。

しかし、そのそつの無さが相手によっては、厭味と受け止められたのかもし

れない。

三宅花圃の、一葉について書かれた文章には、、、、、
 

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2006.02.08

樋口一葉という人、1

五千円札の一葉の肖像を見ながら、

ぼんやり考える。樋口一葉という人は実際どんな

人だったんだろう。森まゆみさんの「樋口一葉の手紙教室」

(ちくま文庫)のあとがき「一葉の実像をさがして」など読むと

わずか、24歳で夭折したこの作家の実像に興味を持ってしまう。

森まゆみさんの「一葉の四季」を読めばいいんだろうけど、

ちくま文庫の『樋口一葉 日記・書簡集』を読むことから始める。

この本の資料集に幸田露伴の談話というのがある。

「故樋口一葉女史

 ○故樋口一葉女史は一見した所、先ず薄皮立の締つた、聡明
  (りかう)そうな顔をした人であつた。敢て醜いといふ程では
  ないが、去りとて非常な美人ではなかつた、寧ろ妹の方が顔立ち
  は好かつたやうに思ふ、        」

五千円札の肖像をしみじみ見ると、まあ非常な美人ではないが、

堅く結んだ唇、ちょっと大き目の眼、りりしく聡明で意思の強い女の人

の印象を感じる。

この文章を読んで、幸田文の『父、こんなこと』(新潮文庫)の一節を

思い出した、、、、、、、

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2006.02.07

樋口一葉の手紙

「樋口一葉の手紙教室」(森まゆみ著 筑摩書房)

この本は、明治29年5月、博文舘より刊行された『通俗書簡本』

(樋口一葉の生前に唯一刊行された手紙の書き方の実用書)の

例文を解説しながら、一葉先生に手紙の書き方を学び、

同時に、わかりやすく、すなおに感情を表現するという、

簡単そうで難しい、「ことばの自由への道」をたどる

本であるらしい。

最近、手紙など書いたことがない。

あわただしく過ぎてゆく日々に追われ、季節の挨拶の文章など

忘れていた。

一葉はこの本を五月に刊行して、その年の十一月に死去している。

手紙の書き方という実用書といいながら、森まゆみさんの紹介

する一葉の手紙の例文を読んでいると一編の短編小説の

様にも思えてくる。「花見誘いの文(ふみ)」「草花に添えて人のもとに」

「猫の子をもらいやる文」、、いずれを読んでも現代の日本人が

忘れてしまった、あるいは捨ててしまった多くの事に気付く。

この文庫本には、一葉が心を寄せた半井桃水への手紙も紹介されて

いる。揺れ惑う心でしたためた手紙は、しかし投函されなかった。

この本のあとがき「一葉の実像をさがして」を読むと、

樋口一葉という人の複雑さに興味を感じる。

五千円札の肖像を見ながら、手元にある幾冊かの本のページを

めくると、わずか百年ちょっと前の一人の女性に対する

様々な見方に驚いてしまう、、、、

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2006.02.05

余寒

nekoasiato
なんだか知らないけど、

今年の冬は寒い。

寒い夜に

雪の上に猫の足跡、、、、、、。

暦では春、、、、、

『樋口一葉の手紙教室』筑摩書房(森まゆみ著)

に「余寒見舞の文(ふみ)」というのが書かれてある。

『暦をくれば春の日数に入り候えども、梅うぐいすなどかけても

 思いよられぬ御寒さにおわしまし候をいかが暮させ給うや。

 夏のあつさには汗だに見えさせ給わぬ御羨ましさに引かえ、

 いつも此頃を憂きものに思(おぼ)しめすよう承りおよび、昨日

 よりの雪に御障りなどもいらせられずやと御案じ申上候。

 御有さましめさせ給わば嬉しかるべく、此甘酒は人より教えら

 れ候て始めて試みたる手製に候まま、加減のほどあやしけれ

 ども御笑いぐさに参らせ候。入れ物はお留め置き下され度候。

 御様子うかがいまでに。かしこ。』

あぁー、いいですねぇ。

甘酒に添えられたこんな手紙、手作りの甘酒も嬉しいけど、

御礼の返事どう書いたらいいんでしょう?。

ちゃんと例文があります、、、

 

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2006.02.03

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、21

ぼんやり、壁のお品書き見ながら、次は何を

頼もうか?なんて考えているうちにも、次々客が

入り口を開ける。その度、主人は「只今、満席で御座います。

申し訳ございません」と声をかける。かくして入店の栄誉に

恵まれた我々は、一時の幸福感にひたるのであります。

カウンターの客の注文に全て答えた主人は、奥からだし汁を

おでん鍋に注ぎ足す。そしてまた順次注文を聞く。

私が店にいたのは四十分ばかりだったが

三度は注ぎ足していた。四代目の主人は客の注文に、おでん種を

仔細に吟味して、時に頭をかしげて客に出すタイミングを

見計らっているようだ。「蛸」は最期に喰った。コロは注文し損なった。

「湯葉」はまた今度来た時の楽しみにとっておこう。

「蛸」は柔らかくて旨かった。しかし下賎の身ゆえ、井伏鱒二みたいに

「春さん蛸のぶつぎりをくれえ それも塩でくれえ」と

この蛸を塩で喰いたかった。とても、そんなこと言える雰囲気では

無かったけれど。肉体労働者の私には、大酒飲みの私には

もうちょっと塩気が欲しい。

かの織田信長も、有名な料理人を召抱えたが、自分の口には

合わなかった。もっと旨くしろ、さもないと首をはねる、と脅された

料理人は濃い味付けにした。この田舎者めがと心の奥で軽蔑しながら。

かのナポレオンも、当時の有名な料理人のカレームから

「まったく下司な食い手である」と酷評された。織田信長でも

無く、ナポレオンでもない私ごときが「塩をくれえ」なんて

よういえまはん。

まあ、あれこれ、素直でない私は色々ケチをつけたいのだが

旨かったよ「蛸長」のおでん。葱はパサパサしてたけど。

多分この店では、どの時間に来ても

どの季節に来ても、客には常に「蛸長」の味を提供すべく

百三十年余の伝統の努力をしているのでしょう。

それが京都であります、、

そうして、漱石の「京に着ける夕」風に言えば

『京都は「蛸長」のおでんで、蛸長のおでんは京都である。』

ピカピカのおでん鍋の、たっぷりのだし汁のなかに

湯葉や蛸や聖護院大根や福袋、葱鮪までが鎮座まします。

我々は何故だか妙に緊張しながら、主人の気配りに

背かぬように黙り込んでひたすら喰う、、、、、

そして満足して七条のプラットホームへと戻るのでありました。

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2006.02.02

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、20

takotyou
さて、カウンターの右から7番目の

私に四代目主人から声がかかる。

酒を頼み「大根、筍、福袋、がんも」と注文する。

酒は真鍮の「チロリ」、ぐい飲みの飲み口を燗所のお湯で

温めている。私が、昔通った普通のおでん屋の安い真鍮のチロリ

(分厚いガラスのコップに注いで、下の皿まであふれさせて

くれる、あふれた分がサービス)とは違い分厚いどっしりとした

チロリであります。たっぷりの刻み葱とからしをつけて、

大根、聖護院大根を食う。あれれ?味が無い。うす味、だしの味

はする。これが京都の味か。すぐに慣れる。筍は筍の味、ふくろの中身

は色々、クリもはいってました。うーん旨い。

なんてたちまち酒を飲み干し、次のご注文の順番ぼんやり待って

いて、ふと気がついた。幾度か来店しているみたいな奥の四名は

主人に時折声をかけているが、後の八名は無言、ありていに言えば

皆緊張ぎみ。おでんを食いにきているというよりも、やっとありついた

「蛸長」の雰囲気にひたって、それだけで満足しておるのだ。

さて、「蛸と湯葉は時間がかかります。ご注文いただいてもしばらく

お待ちください。」との主人の言葉、次は「蛸」を頼もう、、、、、

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