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2006.01.31

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、19

takotyou
かくして「蛸長」に入店。

6時開店と同時に、

店内は満席。

常連らしき二人連れが二組最初に奥に座る。

多分この四人も他県からの客。

この他の八名は、多分観光客だろう。皆が着席すると

店主が(多分四代目)、ひたすら丁寧にこう告げる。

「順次、ご注文をうけたまわります。三品か四品ほどご注文
 下さい。さて、お客様、お飲み物はなんにいたしましょう、、」

一番奥の客は「ビール」と言い、「大根、袋、がんも、、」なんて

注文している。店主はピカピカのおでん鍋から注文の品を

引き上げ、食べやすい様に切るものは切り、たっぷりの刻み葱

とからしを添えて客に出すのであります。

わたくしはといえば、まあ、なぜかしら緊張して店の壁の

お品書きを見つめる。そして順番とはいえ鍋の正面に座り

どうしたもんじゃろかい、お品書きは漢字ばかりで

値段なんぞは当然ながら書いてない。

どうしょー順番がまわってくるーと、パニクッておる、、、、

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2006.01.30

そうだ京都の「蛸長」でおでんを喰おう、18

takotyou1
6時に開店の「蛸長」。

12,3人席の

カウンターだけの店。

30分前には並ばないと

入店できない、との情報。

5時40分に到着。

二人店の前に張り付いている。

ということは入店できる。かくして生まれて始めてぼんやり

店先に立ち開店を待つ事となる。

『京都には、四条の南座の裏手に「蛸長」という、三代もつづいて
 いるおでんの老舗がある。この店で、聖護院大根や、飛竜頭
 (がんもどき)、コロや海老芋、湯葉など、京都らしいおでん種
 で酒を飲むのは、私のたのしみの一つである。』
                  池波正太郎「むかしの味」

しかし、寒い。

十五分ほど待つうち、ぽつりぽつりと開店を待つ人が

増えてきた。

さて、6時きっかり店の入り口が開けられた、、、

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2006.01.29

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、17

室生犀星の詩に、独り飲む酒の歌がある。

    『街 裏』

私はいまでも
一人きりになってさびしい街裏をたづねてゆく
そこで静かに酒をのむ
誰も行ったことのない
誰も知らない湿々した小路の奥で
ひとり座つたなりで
野におかれたやうに長い時間をおくる

雨のときはぬかるみにかげをおとして
ぬかるみを拾い歩きして
うすぐらく
路次のおくをたづねてゆく
そこで私はがりがりと何かたべてゐる
むりに子供のくちへおしこむやうな食べものが私に強ひられる
さうして酒をのむ
いろんな人間の心が其処に坐つてゐる時みな浮きあがつてくる

うーむ、なんだか陰気くさくなってきた。

そうだ、今日は皆な知ってる有名なおでん屋へ

行くんだった。

路地の奥ではなく、南座の裏手の「蛸長」へ、、

 

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2006.01.28

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、16

 『酔吟低唱』

「蛸長」でおでんを喰いたいが、開店は夕方6時。

まだちょっと時間があるので、『酔吟先生伝』でも

読もう。(青木正児「中華飲酒詩選」)

『酔吟先生は官吏生活三十年、将に老いんとして洛陽に

退居してゐる。天性酒を嗜み琴に耽り詩に淫(ひた)り、

、、(中略)。日々作った詩が約千余首、年々醸した酒が

約数百石、、、、、』

『もし、吾が好む所の酒を捨てるならば、何を以って老い先

を送ろうか。又数杯を引いて好い気持ちに酔うてきた。

かくて酔うてまた醒め、醒めてまた吟じ、吟じてはまた飲む、

飲んではまた酔ひ、酔うたり吟じたり、循(めぐ)れる還(たまき)

の如くである。是より身世を夢とし、富貴を雲とし、天を幕とし地

を席(むしろ)とし、一生百年を瞬時と見なすことが出来、陶々然

として楽しみ、昏々然として眠り、老の将に至らんとするを知らず、

古の「全きを酒に得る」(老子、酔者は車より落ちても死なぬ)もの

である。故に自ら酔吟先生と号する。』

このとき、白楽天、67歳。あごひげは白く、歯は上下とも欠けた。

しかし、詩酒の興は未だ衰えない。妻子に向かいこういった。

「いままで調子は良かったが、この先どうなるかは、わしゃ知らん」

いやはや、困った爺さんであります。

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2006.01.26

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、15

      「勧 酒」

   コノサカヅキヲ受ケテクレ

   ドウゾナミナミツガシテオクレ

   ハナニアラシノタトエモアルゾ

   「サヨナラ」ダケガ人生ダ

これは有名な井伏鱒二の『勧酒』(干武陵)の名訳だね。

元詩は

  『勧酒』

 勧君金屈*(シ)
 満酌不須辞
花発多風雨
 人生足別離

青木正児の「中華飲酒詩選」による訳は

 「君に勧める黄金(こがね)のさかづき

  なみなみと酌むから辞退してはいけない

  花が開けば風雨の障り多く

  人の世は別離に満ちてゐるものだ。」

『こがねのさかづき』とはコーヒーカップのように取っ手がある

 盃で高位の者は純金を用いた。、、花には嵐、人には別れ。

 ままにならぬが浮世の習ひ。せめて相逢うた時に歓をつくせ

 よ、とて酒を勧めてゐるのである。』

「勧酒」と題する、詩は白楽天にいくつかある。

「酔吟低唱」、酔吟先生の詩も『中華飲酒詩選」から

味わいましょう、、、

てなことで『蛸長』まで行き着くには、まだまだ時間が

かかります。

午後6時開店らしいのです、、、、、


 


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2006.01.25

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、14

{井伏鱒二}

  『田家春望』  高適

  出門何所見
  春色満平蕪
  可歎無知己
  高陽一酒徒

 (ウチヲデテミリヤアテドモナイガ

  正月キブンガドコニモミエタ

  トコロガ会ヒタイヒトモナク

  アサガヤアタリデ大ザケノンダ)

まあ、有名な井伏鱒二の名訳ですね。

この高適という人は、青木正児の「中華飲酒詩選」の解説に

次のように書いてある。

「高適は少壮時代放浪して或は博徒の群に入つたりして、詩も

 年五十にして始めて作つたといふ」
 
老齢になり、高位についたが安禄山の乱など時代は乱れて

彼の家も反乱軍により略奪された。

『、、、、、
 昨  軍人ノ我ヲ略奪スルニ逢ヒ
 家ニ到レバタダ妻ト子トヲ見ル
 君ガ春酒数十杯ヲ飲ムヲ得ルニ頼ル
 シカラズンバ我ヲシテ愁ヘテ死ント欲セシメン」

高適さんも、大酒飲むにはそれなりの理由があったのね。

井伏さんも大酒飲む理由があったのね、、

明日は、有名な「サヨナラダケガ人生ダ、、、、

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2006.01.24

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、13

{井伏鱒二}

       『逸 題』

     今宵は仲秋名月
     初恋を偲ぶ夜
     われら万障くりあはせ
よしの屋で一人酒をのむ

     春さん蛸のぶつ切りをくれえ
     それも塩でくれえ
     酒はあついのがよい
     それから枝豆を一皿

     ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
     われら先づ腰かけに坐りなほし
     静かに酒をつぐ
     枝豆から湯気が立つ

     今宵は仲秋名月
     初恋を偲ぶ夜
     われら万障くりあはせ
     よしの屋で独り酒をのむ
                (新橋よしの屋にて)

新橋よしの屋は、おでん屋で「たこぶつを塩で」喰うのが

旨かったらしい、小林秀雄らも通った。

牛丼屋じゃないぞ。

あぁー、いいですねぇ。

明日も井伏鱒二から、、、、、

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2006.01.23

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、12

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「麩嘉」のふまんじゅう。

生麩の中に

甘いあん。

京都らしいといえば、

京都らしいのです。

さて、「蛸長」でおでんを喰うのでした。

「おでん」なんてのは、寒い時にちょっと一杯、

庶民的といえば、一番、庶民的な食い物であります。

かくいう私もおでん屋にはさんざんお世話になりました。

おでん屋の親爺というのは、気難しい人が多かった。

私の居住地の近くにも、気難しいので有名なおでん屋が

ありました。客が立て込んでいる時にうかつに注文などすると

返事もしなかった。今はもう無いけど、この店の話が出ると、

「本当にあの親爺の愛想の無さといったらさァー」と

皆が言う。じゃあ、何故行ったの?

なんだか、うまく言えないけど、あの雰囲気が好きだったのね。

別に、今どきのグルメ好みの特別なものがある訳じゃない。

とうふにがんもどき、はんぺんにごぼてん。なんだか知らない

けどこの店の串カツがうまかった。

そんなもの適当に注文して熱燗でぼんやり飲む。

隣の席ではいい加減に出来上がったオヤジ同仕くだまいてる。

聞くともなしに、そんな話耳にしながらもう一杯。

店の込み具合も一段落して、あの無愛想なおでん屋のオヤジ

が、「しばらくぶりだね、仕事最近どう?」なんて声をかけて

くれる。「まあ、ぼつぼつなのね」なんて答えて、

妙に心がなごむ。

おでん屋なんて、そんなものなんだ。

井伏鱒二のうたにありました、、、、、

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2006.01.22

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、11

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ぶらぶら歩いていたら、

進々堂の前に来た。

ここのフランスパンは

昔々の貧乏学生時代

よく食った。

それまでフランスパンなんて食ったことがなかった。

旨かった、、、、

 さて池波正太郎の小説に出てくる食い物の本が複数

あったんだけど捜しても見つからない。

『剣客商売読本』(新潮文庫)に、秋山小兵衛の風貌は

中村又五郎、そしてもう一人のモデルは池波さんが

若い頃親しくしていた三井老人という人であったとある。

『長火鉢に、底の浅い土鍋がかかってい、三井さんは浅蜊
 のむき身と白菜を煮ながら、飲んでいる。
 この夜、はじめて私は小鍋だてを見たのだった。』

底の浅い小鍋へ出汁(だし)を張り、浅蜊と白菜をざっと煮て

は、小皿に取り、柚子をかけて食べる。小鍋だては、ごたごた

入れない。でいぜい二種類か三種類、煮ては食べ、食べては

煮る。 そして酒を飲む、、いいなァー、

ずっと以前になるけど、小鍋だてをやりたいと思って、小さな鉄鍋

をホームセンターで購入、真似してやってみた。

けれど、こうした事には、ゆったりした時間と、心の余裕が必要なん

ですね、、、、最近は、やってない。

いつか、歳をとって、もう明日の仕事のことに神経を使う必要が

無くなったら、、一人、ゆっくり小鍋だてで酒を飲みたい。

そういえば、秋山小兵衛も三井老人も、ずいぶん歳下の

若いカミサンがいたんだよねぇ、、、、、

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2006.01.20

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、10

池波正太郎『剣客商売』
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池波正太郎の「むかしの味」(新潮文庫)に

村上開新堂という、洋菓子屋の『好事福*」(こうずぶくろ)

が紹介されている。事前の調査で日曜は休みという事

だったが、中京区寺町通り二条上ルに行く。

村上開新堂はひっそりと店を閉じていた。また次の機会まで

「こうずぶくろ」は楽しみに取っておこう。

開新堂近くに、「尚学堂」という古書店がある、と書いてある。

この店もひっそりと休業。

この古書店で、偶然、池波正太郎は歌舞伎役者の中村又五郎

の姿を見かけ、書き出そうとしていた「剣客商売」の主人公、

秋山小兵衛のイメージをふくらませることになったらしい。

最近、あんまり見ないテレビだけど、『剣客商売』のシリーズだけは

見る。『鬼平』もそうだが、池波さんの書く話には美味しそうなもの

が出てくる。それも形式ばった料理ではなく、ちょっと晩酌の肴に

なりそうな、江戸前の小粋な食べ物だ。

『剣客商売読本』(新潮文庫)を読むと、、、、

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2006.01.18

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、9

kohi
『植草甚一さんと池波正太郎』

池波正太郎が植草さんについて

「ただものではない若さ」と書いて

いる。

「大正末期から昭和初期にかけて、おもうさま

 青春を味わった人びとは、そのころの若さを

 決して失わない」

池波正太郎も、家庭の事情もあったんだろうけど

十三歳から実社会に飛び出し働いていた。

お二人共、ずっと前に亡くなってしまったけど。お二人の

書いたものには、妙な苦労話や暗い思い出なんか無い。

好奇心旺盛な若者にとって、また、「気力のある人びと」には

そのころの東京は、『十百色の絵の具でも色分けられないよう

な多彩な生活を味わう』ことができ、そして『貧乏もまた楽し』

かった。多分時代は変わっても、今が楽しいと感じる人には

時代は楽しさを提供してくれるはずなんだろう。

そんなこんなで池波さんが、旨いというものには私は絶対の

信頼を感じてしまう。イノダのビーフカツサンドは

「男の食べるサンドイッチ」なんだそうだ。これを持ち帰り列車の

中で冷えた缶ビールとともに味わうのは最高と池波さんは言う。

喰いたい、1680円だけど。けれど昼のランチで

満腹になった私にはもう喰えない。次の楽しみにとっておこう。

コーヒーは旨かった。けれどイノダはコーヒーの種類で角砂糖や

クリームの入れ方まで決まっているみたい。次に来る時は

こっちからワガママいってやろうっと。そんなこと考えてふと隣の

席見たら、有名な女優さんがビーフカツサンド食べてる。いかにも

新劇の演出家風のくたびれた感じの男の人と、、、、

この有名な女優さん、脇役でいろんな映画テレビに出ている人、

みんな知ってるんだけど名前は知らない。素顔の彼女は上品で

美しい人でした、、

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2006.01.17

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、8

kohi
『植草甚一』

とりあえず、「アラビアの真珠」

を注文する。

コーヒーが来るまで、

池波正太郎の「むかしの味」を

読み返す。

「イノダのコーヒー」は植草甚一が

『どうして、イノダのコーヒーは、あんなに旨いんでしょうね?』

と池波に聞いている。

植草甚一さんが誉めていたのなら本当に旨いんだろう。

植草さんの本は昔よく読んだ。晶文社刊の本がいまでも数冊

本棚にある。その中の『植草甚一読本』に、

池波正太郎と植草甚一、清水幾太郎の座談会というのがある。

植草さんは明治41年生まれ、清水幾多郎は明治40年生まれ。

大正12年生まれの池波さんが、両先輩に震災前の東京の

下町の話を聞くという設定、この三人は皆東京の下町生まれ。

川端康成や高見順の書く浅草に「何いってやんだい」と

抵抗を感じ、山の手育ちに反感を感じるこの三人の

話は、妙に格好をつけずざっくばらんな語り口が、生粋の田舎者の

私には逆に面白かった。

植草甚一さんはコーヒーが大好きで、というかコーヒーを

飲みながら本を読むのが大好きな人だった。

そして植草さんの本はみんな、こう言っちゃなんだけど、とりとめの

無い話ばかり。そう、喫茶店でコーヒー飲みながら

ちょっと気になるページを開いてぼんやり読むのに最適だった。

ダンディで『カワイイ』おじいちゃんだった。

その植草さんが誉めたんだから当然美味しいだろう。

もっとも、旨いといってたのは相当前の話だけれど、、、、


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2006.01.15

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、7

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ぼんやり歩いていたら、

イノダ コーヒーに着く。

あたりに漂ういい香り、、

12、3人が順番待ちしている。

「タバコをお飲みのお客様、喫煙席に空きがございます」

あわてて手をあげたら、2階席に誘導される。

たまにはタバコを飲んでて得なこともあるものだ、、

さて、一服して、池波正太郎の「むかしの味」を

読み返そう、、、、、、

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2006.01.14

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、6

「孔雀の舌」

「フランス料理の歴史は古いが、今日におけるような
 食事の形式が確立されたのは、それほど古いこと
 ではないらしい。早い話が、フォークを使うようになった
 のは十六世紀からだというし、ギャルソンが料理を皿に
 盛ったり、空になった皿を下げたりするような、いわゆる
 食卓のサービスが行われるようになったのは、近代以降」

それまでは、各自が皿を持ち料理を取りに行っていた。

太陽王、ルイ十四世も、フォークを使うのを面倒くさがって、

手で食べる癖をなかなか改めなかったという。ロココ時代の

華やかな宮廷生活も結構野蛮だったらしい。

どうでもいいけどトイレも数少なかった。必要にせまられると

そこらへんで行っていた。

1533年、イタリアから料理人、菓子職人、酒造業者を引き連れ

アンリ二世に嫁いだカトリーヌは、まだ14歳の若さだったが、

食欲にかけては恐るべきつわものだった。彼女の大食らいは

有名で、いつも腹が裂けるほど食べ、慢性の下痢に悩んでいた。

好物は、朝鮮あざみの蕾、雄鶏のトサカと腎臓であった(!)。

しかしカトリーヌが、フランス料理にもたらしたものは大きかった。

フランス人が一番仰天したのはシャーベットだった。

それまでは、フランス人はシャーベットを見たことが無かった。

かくしてフランス料理は大革新することとなる。

イタリア風の料理を賞味するようになり、フランス人の舌は

洗練されてきた。

ルイ十三世は毒殺を恐れ自身で料理した。

ルイ十四世は恐るべき大食いだった。この時代の有名な

料理人ヴァテルは、ルイ十四世を迎えた晩餐会で材料の

不足に責任を感じ、自殺したという。そういえば中国の料理人

で我が子を王の食卓に出した人がいた。

『易牙(えきが)、君(桓公)の為に味をつかさどる。君の未だ
 かつて食はざる所はただ人肉のみ。易牙その首子を蒸して
 之を進む』(韓非子)

いやはや、、、、、

ルイ十五世は、革命軍に捕まる直前飲んだブルゴーニューが

最高に旨かったと言った、、、、

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2006.01.13

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、5

さて、漱石の『猫』に、寒川迷亭先生が西洋料理屋に行き、

「トメンチボー」なる料理を注文する箇所がある。勿論そんな料理

など無いんだけど。それに続いて迷亭先生の「孔雀の舌」の料理に

ついての手紙が書かれている。

『この孔雀の舌の料理は往年ローマ全盛のみぎり、一時非常に流行

致し候ものにて、、、、16,7世紀の頃までは全欧を通じて孔雀は

宴会に欠くべからざる好味と相成候、、』

古代ローマにおいては孔雀は、その美しい姿から、贅沢な料理の

代表であったらしい。しかし孔雀の舌というよりむしろ脳髄あるいは

卵のほうが好まれたらしい。舌といえば、哲学者セネカにより、

「途方もない贅沢」とされた紅鶴の舌が珍重されたらしい。

牛タンなんてのは、現代の日本でも美味しいとされるが、孔雀や

鶴の舌は美味しいのだろうか?

ようするに、容易に手に入らないものが珍重された。

らくだの踵、つぐみの脳髄、生きた雄鶏のトサカ(生で食べる)等々、

金と暇のある人々は食べることに奇妙な情熱を傾けた。

さて、フランス料理の歴史の一大革新は1533年10月20日、

メディチ家のカトリーヌがアンリ二世の王妃としてイタリアのフィレンツェ

から嫁いできた時に始まるらしい。

  渋沢龍彦「華やかな食物誌」(河出書房新社)

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2006.01.12

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、4

さて、私も、「電車は流星の疾(はや)きに、五十里の冬を

貫いて、行くわれを七条のプラットホームに振り落と」し、

京都にたどり着いた。今年の大雪で30分ばかり遅れたけれ

ど、、、。京都は快晴。そういえば「オペラ座の怪人」観に来た

ことがあった。何年前のことか思い出せない、、、、

おお、百年後の京都は多くの人の群れ、淋しくなんかない。

ことごとく昔の川と山があり、新しい町並みに、漱石のいう

真っ黒な寺院や町屋が入り混じっている。建設の折は

京都の景観を損ねると非難ごうごうであった京都タワーも

適当に黒ずんで、それなりに旧跡になっている。

当然、ぜんざいと書かれた大提灯も見当たらぬ。

そもそも、この旅の目的は漱石同様、新しい生活を始めようと

しているうら若き美女を励ますことにある。まあ、励ますのか

逆に励まされるために来たのか微妙なところではあるが、、。

地下鉄に乗ったが、(昔は六番の市電に乗れば事足りた、

のんびりした街だった、、)丸太町で降りるのを乗り越して

あわてて降りたら同志社大学の前だった。

まあいいかと、御所の側をひたすら歩き目的地に行く。

ちょっと、行ってきますと京都を出てから百三十年余り、

帝(みかど)はいまだにお戻りなさいませぬ。

主のいない御所はなにやら寂しげである。。

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2006.01.11

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、3

漱石は、寒い寒い京都に来て、子規を

思う。15,6年前、漱石は子規と京都に遊んだ。

『、、その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の
 柊屋(ひいらぎや)とかいう家へ着いて、子規と共に
 京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映った
 のは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯
 を見て、余は何故かこれが京都だな感じたぎり、明治
 40年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは
 京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた
 第一印象でまた最期の印象である。子規は死んだ。
 、、、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻の
 迅(すみや)かなる閃(ひらめ)きのうちに思い出す。
 同時にーあの子規は死んでしまった。糸瓜(へちま)の
 ごとく干枯らびて死んでしまった。-提灯はいまだに暗い
 軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮めて京都を
 南から北へ抜ける。』
  
子規も漱石も『制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強(し)い

たる時代』、共に遊んだ。そして、『真鍮は真鍮と悟ったとき、

われらは制服を捨てて赤裸(まるはだか)のまま世の中へ

飛び出した』のだ。そして、今、又漱石は新たな一歩を

踏み出そうとしている。

この後も京都の寒さの記述が続く。漱石は京都が嫌いだった

のだろうか?そうでも無かったようだ。

『入社の辞』で、漱石は次の様に書いている。

「学校をやめてから、京都へ遊びに行った。其の地で故旧と会して、
 野に山に寺に社に、いずれも教場よりは愉快であった。鶯は身を
 逆まにして初音を張る。余は心を空にして四年来の塵を肺の奥か
 ら吐き出した。是も新聞屋になったお陰である。」

なんだ、楽しかったんじゃないか、、、、

しかし、「ぜんざいは京都で、京都はぜんざいである」とは

漱石らしい表現ではある。
 
 

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2006.01.10

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、2

漱石は明治40年の3月末から京都を旅している。

この年の四月、漱石は帝大教授の職を捨て朝日新聞社

に入社する。官の身分から一介の文士への転身は

世間の興味の的となる。高給の待遇へのやっかみも

あったろう。『大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢う人が

驚いた顔をして居る。、、新聞が下卑た商売であれば大学

も下卑た商売である。』と、漱石は、反論する。

さて、以下の文は朝日入社直前、京都に旅した時の文である。

多分、漱石は人生の一大決心をこの年にした。筆一本で

生きようとした。いろんな心の葛藤があったに違いない。

実際、読売新聞からの招聘は断っている。その後、朝日の綿密な

招聘計画により、朝日入社を決心する。しかし、自分の小説は

新聞に不向きではないかと危惧している。

『京に着ける夕』

「汽車は流星の疾(はや)きに、二百里の春を貫いて、
 行くわれを七条のプラットホームの上に振り落とす。
 (中略)ただでさえ京は淋しい所である。原に真葛
 (くず)、川に加茂、山に比叡(ひえ)と愛宕(あたご)
 と鞍馬(くらま)、ことごとく昔のままの原と川と山で
 ある。、、、、、
 東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思は
 なかった。、、

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2006.01.09

そうだ、京都の「蛸長」でおでんを喰おう、1

今年の冬は寒い。

昔は小雪の吹雪く夜は

雪踏みしめながら、近所のおでん屋か

なじみの居酒屋で、熱燗で一杯、復一杯、、

ほろ酔いかげんの火照った顔に冷たい風も心地良く、

帰宅途中で凍った雪道ですってんころりん。

けれど大丈夫、何故か雪道では怪我しませんでした。

さて、京都に行くことになりました。

池波正太郎の『むかしの味』(新潮文庫)に

京都のいくつかの店が書いてありました。

「イノダ」「開新堂」「フルヤ」「初音」「蛸長」、、、、

そうだ、「蛸長」でおでんを喰おう。

雪の舞い散るこの地も寒いが、さぞかし京都も寒かろう。

寒い、寒いと文句たらたら言ったのは夏目漱石だった、、、、

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2006.01.02

新年

sinnnenn
sinnnenn2
あけましておめでとう御座います。

今年も酒で明けました。

この画像にはのってないけど、

97%のラオスのウォッカ、すざましい

優れものでした。

こよなく寒い所、こよなく暑い所の酒は、

この世の物とは思われません。

おちょこ2杯でダウンしました。

かくして今年も酒で明けました、、、、、、

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